埴谷雄高の『闇のなかの黒い馬』

本当は、三島由紀夫の記事を書こうと思ったが、気が萎えたので『埴谷雄高』のことを書く。
ここで述べるのは、『闇のなかの黒い馬』という彼唯一の短編集。(『虚空』は短編集ではないだろう。そして当然『死霊』など扱えない、通読していない。)
彼は徹頭徹尾、”闇の住人”であった。”闇”、”夜”、”暗黒”を偏愛し、一生を「存在論」に捧げた作家だ。

・・・私達の体質には昼型と夜型との二つの型があつて、前者は活動と前進、つまり、現在とすぐ隣りあった次の未来へ向かって精神の窓が展いているのに対して、後者は、総体において、それが過去に向うにせよ、未来に向うにせよ、殆どひたすら、見渡しがたいほど遙か彼方の混沌と虚無へ顔を向けて終生倦むところを知らないのである。
「闇のなかの黒い馬」より

彼の生涯をWikiとかでみると、自分より確実に一世代前の人との印象を受ける。

青年期に思想家マックス・シュティルナーの主著『唯一者とその所有』の影響を受け、個人主義アナキズムに強いシンパシーを抱きつつ、ウラジーミル・レーニンの著作『国家と革命』に述べられた国家の消滅に一縷の望みを託し、マルクス主義に接近、日本共産党に入党し、もっぱら地下活動に従事。検挙後は未決囚として豊多摩刑務所に収監され、形式的な転向によって釈放された。獄中ではカント、ドストエフスキーから圧倒的な影響を受けたという。出獄後は経済雑誌の編集に携わり、敗戦を迎えた。元マルクス主義者と呼ばれることが多いが、シュティルナーの「創造的虚無」を自己の思考の根底に据えることは終生変わることがなかった。

埴谷雄高 - Wikipedia

ここらの事情は、「柄谷行人」が詳細に述べているので、参照してほしい。
柄谷行人【埴谷雄高とカント】

ただ、一つよかったと思うのは、同時代の「吉本隆明」の昨今のように醜態を晒さずに、『死霊』という未完の小説と共に”逝ってしまえた”ことだ。
『闇のなかの黒い馬』に収録されている作品タイトルを列挙する。(ちなみに原本では”夢についての九つの短編”との副題が付いている)

  • 闇のなかの黒い馬
  • 暗黒の夢
  • 自在圏
  • 追跡の魔
  • 変幻
  • 宇宙の鏡
  • 《私》のいない夢
  • 夢のかたち
  • 神の白い顔

小説を紹介するのに「あらすじ」を述べるのは愚かな行為だ。そんなことはしない。が、白眉といえる箇所を数ヶ所引用しよう。

その就寝時にも、私は、いささか大げさにいえば、烈しく武者震いするほどの気分で、自分を鼓舞しながら、まず、仰向けになったままゲーテの言葉を読むのであった。
 「観念のなかに生きるとは、不可能事をさながら可能であるかのごとく扱うことである。」
「暗黒の夢」より


それからの私の操作は、墜ちても墜ちてもなお堕ちつづけてとまることもない無限落下の夢のなかへ敢えて果てもなく堕ちつづけることによってその夢自体をともにひきずりゆき、ひとつの石を放物線状に投げるように、そのひきずつている夢をまさにその無限落下の方向へ向かつて懸命に投げだすことにあつたのである。
「自在圏」より


・・・いささかの自己訓練をつめば、その「追われる事態」を自ら意図して確実に招来することができるようになるのである。・・・まさにその夢のなかで、敢えて「不意と後ろを振り向く」ことにすぎないのである。たとえそこにはつきり目に見える何らかの奇怪な魔性の存在を確かめずとも、或る抗しがたい気配の現存をそこに生々しく感ずれば、その瞬間から、すでに私は、まさに確実に、「追われるもの」となつてしまつているのである。換言すれば、私達にとつて追跡の魔は、この私があるかぎり、何時、何処にでも避けがたくいる、といわなければならないのであつた。
「追跡の魔」より


ところで、この魅力つきない暁方の半覚半睡時のほかに私がいささか興味をもつているものに、眠りから目を覚ますところからまさにはじまる種類の夢があつたのである。
「変幻」より


そうした私にとつて、さて、夢のなかの鏡こそまさに最上、絶好の《呼びだしの魔の道具》にほかならなかつた。
「宇宙の鏡」より


従って、私のひそかに志向する未知を見ること、《白昼に眺める外界の事物のかたちの再現でないところの何か》を見るためには、いつてみれば、夢を夢ふうにみるのではなく、夢をいわば想像的夢として自ら構成してみるなんらかの工夫をこらさなければならないのであつた。
「夢のかたち」より


確かに、私は、目をとめるべき漠としたかたちも、過ぎゆく影も、ぼんやりした輪郭もない夢のなかの一つの奇蹟、完璧な純粋空間ともいうべき白い夢をそのときはじめてみたのである。
「神の白い顔」より

確かに「夢について」しか書かれていない短編集だ。しかも執拗に。

後はただ、作者の述べていることを記すことぐらいには意味があるだろうから下記に。

ここに扱われているのは、私の古くからの主題である「存在」である。けれども、未完の長編『死霊』においてはそれがやや多角的に扱われているのに対して、ここに収められた作品はすべて十四、五枚の短編であつて、ただ一つの角度から存在に向つて這い寄ってゆく試みのみがなされている。
(中略)
この領域の模索は甚だ困難であるけれども、ひとたびのめりこめば、そこは汲めども尽きぬ興味の驚くべき深さをもつている広大な世界であつてもはやそこからでてこれなくなるほどである。この二十世紀の主課題がまさに私達の主課題となることを私は望みたい。

あとがきより

ここでなんと「埴谷雄高」の動画が21個も見つかった。その最後を紹介。

この動画で、ついに完成に至らなかった『死霊』に対する彼の無念さは見て取れない。むしろ”老いた作家の孤独”さがひしひしと伝わってくる。
記事で取り上げた『闇のなかの黒い馬』は、『死霊』入門にはよいのかもしれない。(繰り返すが読んでないのでなんとも云えない)
最後に彼の言葉を引用して、終わる。(『闇のなかの黒い馬』は自分で読んで下さい)

「薔薇、屈辱、自同律――つづめて云えば、俺はこれだけ」
不合理ゆえに吾信ず』より

闇のなかの黒い馬 (1971年)

闇のなかの黒い馬 (1971年)

この本は装丁が「駒井哲朗」の苦心の挿絵が入っているので、出来ればこの版で読みたい。(入手困難も)

P.S.埴谷雄高への個人的謎として、彼が戦時中「デモノロギー」の本を夢中で集めて読んでいたということがある。
また、竹本健治は『闇のなかの赤い馬』という作品を書いている。(当然、埴谷氏を意識してのことだ)

闇のなかの赤い馬

闇のなかの赤い馬