苦手な作曲家「プーランク」−ヤヌスの仮面の下には?

珍しくアーティストの記事を書くのに、その私生活から入る。『プーランク』はゲイであった。アーティスト個人を扱う場合に、その作品こそがすべてであって私生活に踏み入るのはタブー視される傾向があるが、自分もある程度は同感だ。だが、「プーランク」にあっては、どうしてもその生活と創作に関連性があるのではないか?と興味がわいてしまう。仄聞するに、彼は、非常にエピキュリアン的な生活をパリで送っていたようだが、そのことと、プーランクの一種の”古さ(二十世紀にあって)”に結びつきがあったのではないかと、つい考えてしまう。
プーランクの有名な言葉を紹介。

一、私の法典、それは本能である。
二、私に原理などはないし、そのことを自負している
三、私はなんらの作曲上のシステムを持っていない、ありがたいことに!
四、インスピレーションは不思議なもので、説明できないところがいいのだ

そう、二十世紀にあって彼は”古いが、才能があった作曲家”という奇妙な、アンビバレンツなレッテルを貼られている。この記事を書く前に彼の歌曲全集と「カルメル会修道女の会話」を全部聴きなおしたのだが、どうしてもそこには、軽さ(軽妙さ)が付きまとう。事実、彼は大衆的な、俗っぽいとさえ形容できる音楽を非常に愛していた。具体的にそれがどんな曲かというとマスネの「タイスの瞑想曲」とか、グリーグの「朝」などである。
彼は『六人組』と呼ばれる集団にも数えられるが、そこから学んだのは「軽さと透明さの美学」だったのかもしれない。

弱冠二十才のプーランクは、出版社にプロフィールを送るに当たり、「好みの四人の音楽家」としてバッハ、モーツァルト、サティ、ストラヴィンスキーを挙げベートーベンは全然好きじゃない、ヴァーグナーは大嫌い、フランクも好きじゃないと述べた後、自分はキュビスムの音楽家でもないし、ましてや未来派でもない、印象主義者でもない、「私はひとりの音楽家なのです、レッテルのない」と断言している。

「パリのプーランク その複数の肖像」より

この上記の発言は、多分若さゆえの一種の自己顕示と自分は思う。それは、ブーレーズを非常に支持し、初演に足を運び励ましの手紙を書いたりしていることからも明らかであろう。
(反対にシュトックハウゼンへは生理的嫌悪感を抱いていたようだ)

冒頭に書いた「プーランクのゲイの側面」とその音楽性の関連は、天性のオプティミストという程度しか、分からなかった。
だが、先に引用した本が、重要な示唆と考察を含んでいるので紹介する。

パリのプーランク―その複数の肖像

パリのプーランク―その複数の肖像

この本では、陽気な作品の創作過程でも、「ゲイとして悩んでいた私生活」が記されている。

・・・折しも《カルメル会修道女の対話》を作曲中で(略)自らはガン・ノイローゼに陥っている。おそらくはリュシアン*1との関係も不安定だったのだろう。それ以上にショックだったのは、リュシアン自身が肋膜炎を患って、余命幾許もない状態だったことだ。同じ部屋に住みオペラの作曲をつづけ、作品が完成していくにつれて、そばにいるものものは弱っているという状態だったという。

「パリのプーランク その複数の肖像」より

結局、何も解明しないまま記事を終わるが、動画は紹介しません
短い、主旨不明の短文記事ですが、こんなんしか書けませんでした。(本当は『カルメル会修道女の対話』について書こうと思っていたのですが・・・。)

*1:リシャール・シャンレール、レイモン・デトゥーシュらと同じプーランクの愛したトゥーロンの旅商人