”百年後までごきげんよう!”(or分類)−しりとり駄文、破産記事

「電話なんかしてる場合じゃないだろ!?早く逃げろ」
「サミュエル・・・人類の歴史上最も多くの人間を殺した科学者は誰だと思う!?
ダイナマイトを作ったノーベルでもなく、原子爆弾を作ったアインシュタインでもない・・・
答えは”進化論”のダーウィンだ!!」
「ふざけた謎かけしてる場合か!!死にたいのか!!」
「環境に適応した勝者だけが生き残り、敗者は自然淘汰で死滅する・・・
このダーウィンの進化論を人類社会に当てはめた社会ダーウィニスト達が
やがてドイツ優生学を生み・・・・・・
あのアドルフ・ヒトラーを生み出す事になる!!
私はかつて”ヒトラーの子ら”と賞賛される子供の一人だった・・・
ヒトラーの言う地球上でもっとも優秀な純血アーリア人種・・・
私は誇らしかった!!
世界のすべてが自分の物だと思えるほどに!!
だが・・・ヒトラーが死んでから
それは全て幻想だという事を
思い知らされたよ・・・
だから私は、自らの手で、血で、生み出そうと考えたのだ。
幻想ではない、人種や民族というものを超えた、
根源的に進化した人類を・・・
そして・・・それは成功した・・・・・・
今、私の誇るべき息子が父を殺しにやってくる!!」
「父さん・・・」



『ARMS』14巻より抜粋

Arms 7 (少年サンデーコミックスワイド版)

Arms 7 (少年サンデーコミックスワイド版)

また漫画からかよ!(自分でもそう思う)。

分類学という学問があるらしい。

だが、生きている人間については専門家たちは触れない態度を保持している。逃避行動ともいえる。

人種を含む形質人類学は、戦前はそれなりに成果を上げ、発達してきたといえるだろう。が、戦後になりそれを避ける傾向が学会の常識となっている模様。

勿論、その第一の要因は、ナチスの歪曲した人種理論がユダヤ人(ジプシーを含む)の大量虐殺に手を貸した反省からだろう。

第二には、人種形質の差異の受け止め方で、身長は?鼻の形は?皮膚の色は?頭髪の形状は?という指摘。

現行人類である世論の風潮は、自分達と直接関与してしまう(化石人類を除いて)。

その差異を優劣と同位に、心情的受け止め方と組み替えてしまう。

大衆の持つ心情的価値が、形質人類学を抑圧しているのだ!

その結果、価値観のバイアスのかからない隙間に、わずかに存在している。

(これは大き過ぎる問題だ)。


さて、分類、特に図書の分類について書こうと思い、何気なく検索していたら、
「日本分類学会」という団体があるのを知る。
このサイトの研究報告会というのをチラ見したら、こんな発表が並んでいた。

  • 単相3元重複クラスター分析におけるMAPCLUSに基づくアルゴリズムの研究
    • う〜ん、完全に数学の世界で分からん。
  • ベイズ的アプローチによる非計量多次元尺度構成法
    • 各単語は理解出来ても、やはり数学の世界だな!分からん。
  • 会話から読み解く漫画「ルパン三世」の順応化
    • なんじゃ?これが一番分からんではないか!(でも前振りの漫画と分類が偶然一致したぞ!)。

図書の分類に触れる前に、分類学の出発点となった生物分類学から。
英語で”Taxonomy”というくらいだから、”タクソン”という語がキーワードとなる。
タクソンを定義するなら、「あるシステムに、大小に関わらず設定された分類単位」という事。

生物の学名が、ラテン語で”属”と”種”の組み合わせで構成されているのは既知の通り。
自分のペンネーム?の”Felis cutus”のように。
(意味は猫です)。
こうして最小単位の種のタクソンが、”門”・”綱”・”目”・”科”・”属”・”種”とピラミッド型のヒエラルキー構造のどれかに属することとなる。

ここらで、説明がイヤになる。詳細はこちらをどうぞ!(学名 - Wikipedia

ただ、植物学と動物学では”植物命名規約”と”動物命名規約”が互いに独立しているので、不都合が多いとだけ述べるに留める。
(この矛盾を解消するのがWIKIの設立目的の一つだったはず)。



《話題大転換》
自分で読んでもツマンナイ文章だから、話題を「百物語」に変える
(最後にはキチンと図書分類に戻る予定)。

百物語はどうして、”百”という数字にこだわったのか?
(本来こういう質問に答える義務があるのが図書館のレファレンスサービスで、どんな質問にも解答が載っている資料を各種ツールで検索して示す役割、司書の方なら御存知の通りだが、現状はお寒い)。

実際に百物語をやってみると分かるのだが、全百話というのは、一夜のうちに完遂するには少なからず多からず、とっておきのネタを長々と披露する参加者が中にはいたとしても、後に短い話を連ねて時間配分を加減することが可能な、絶妙な区切りなのだ。
これで終わりと思い定める区切りだからこそ、その実現にこだわってしまうこともあるだろうと述べて、著者*1は自社仏閣へ祈願を込める「お百度参り」の例を挙げ、さらに「百鬼夜行」の怪異伝承と百物語の関係へと説き及ぶ。
要するに百鬼夜行の「百鬼」とは、夜中に群れなして練り歩く妖怪たちの数の多さを示す言葉だったが、「ところが江戸時代になるとこの百鬼夜行の言い伝えがほんとうに百に結びつき、百物語という百の怪談ばなしを語り継ぐ習わしができた」。



『百物語の怪談史』東雅夫著 P53より抜粋 

百物語の怪談史 (角川ソフィア文庫 (SP354))

百物語の怪談史 (角川ソフィア文庫 (SP354))

なぜ夢殿は八角形か―数にこだわる日本史の謎 (ノン・ポシェット)

なぜ夢殿は八角形か―数にこだわる日本史の謎 (ノン・ポシェット)



百物語と云えば、『新耳袋』か。
一話紹介。

「卵」
Uさんの母親の話である。
Uさんは母に玉子焼きというものを作ってもらった覚えがないという。

大戦中、若かった母は大陸のある都市で経理の手伝いをしていた。
仕事をしていてわからないところがあった。
「あのう、ここ、どうしたらいいんでしょうか?」
職場の先輩に聞いた。
「どれどれ」と言いながら、先輩が「ああ、これか、ちょっと替わってあげよう」と彼女の席に座った。
その時だ。
ドオーン!
後ろからものすごい音がした。
驚いて振り向いた。
後ろの壁に大きな穴が開いている。壁が爆弾で吹き飛んでいた。
視線を元に戻すと、机がない。
ガラガラガラッと何かが崩れる音が前方でする。
身体が硬直して、声も出なかった。
机が吹き飛んでいた。いや、後ろの壁に置いてあった金庫が、爆風で前へ吹き飛んで机と先輩を巻き添えにして、壁に当たったのだ。金庫の周りが真っ赤に染まり、はみ出た腕が、ぽたっと落ちた。
先輩の最後の姿。

戦後、十何年もたっても、その情景は忘れられない。
そんなある朝、父の弁当を作ろうと、卵を叩いてカシャと割った。その瞬間、全身が戦中に戻った。
(先輩が潰れた!)
あの時は、大きなドオーン!という爆発音しか聞こえなかったはずだ。
しかし、音だけが甦った。
金庫と壁の間で潰れる肉体の音。それと卵の殻が潰れる音。
カシャ。
同じだった。

なぜその時になって音が甦ったのか、わからない。
何年もたつうちに記憶の中でだんだん音が拭き取られて、一番嫌な音だけが取り残されたのかも知れない。幼いUさんに母はそう話したという。

それでUさんは、玉子焼きを食べたことがないのだという。



新耳袋』第五夜 第九十一話より

恐いが、悲惨な戦争にまつわる話である。

新耳袋―現代百物語〈第5夜〉 (角川文庫)

新耳袋―現代百物語〈第5夜〉 (角川文庫)


”肉体の音”と云えば『骨の音』か。
岩明均の作品『寄生獣*2を、よもや読んでいないとはいわせない。
彼の隠れた名作が下記の作品。

新装版 骨の音 (KCデラックス)

新装版 骨の音 (KCデラックス)

これはさすがに未読の人も多いので、ネタばらしはしません。
ただ、タイトル作品が強烈!



骨と云えば、『骨単』か。

骨単―ギリシャ語・ラテン語 (語源から覚える解剖学英単語集 (骨編))

骨単―ギリシャ語・ラテン語 (語源から覚える解剖学英単語集 (骨編))

このシリーズは『肉単』・『臓単』とか色々出ているが、読み物として楽しく読める一冊です。

犬歯は英語で canine tooth というが、この canine ケイナインは「犬のような、イヌ科の、犬歯の」という意味。ラテン語 canis カニス「イヌ」に由来する。星座の Canis Major ケイニス メイジャー「大犬座」、 Canis Minor 「子犬座」はラテン語そのものに由来。canis に相当するギリシャ語は、Κύων キュオーン(まるで犬の悲しい時の鳴き声のようだ)。
このキュオーンから、Cynic スィニック「(ギリシャ哲学の一派)キニク、犬儒学派」という名称が生じた。これはこの学派の人々の禁欲生活が、まるで「犬のような生活」だと人々が評したことからと言われる。



『骨単』p36より抜粋  

ね、知っているようでもこうして細かく説明してくれて、とても解剖学コーナーに置かれる本のイメージとはかけ離れた”知の楽しみ”を教えてくれる本です。
(実際購入者の大半は医学関係者ではないらしい)。
ちなみに注意事項として、「生物の属名・種名はイタリック体にて表記している(例:Xiphias gladiusメカジキ)」とある。



生物の属種名と云えば、分類か。
ようやく、図書分類に戻った!

先に書いたタクソンだが、ヒエラルキー構造上同じ”種レベル”のタクソンは、同格の扱いを受けていると言う意味でパラレル・タクソンともいう。
図書分類が直面している問題が、このパラレル・タクソン、すなわち図書の種類の数が他に類をみない膨大な数になったことで、生物学では化石種を含めた現生種で、数百万種程度の範囲に収まっているのに対して、図書(新聞・雑誌は勿論、地方自治体の文書、学術論文、音響資料etcetc)は、今なお幾何級数的に増加しつつあり、その桁が一つ?多いことはもはや図書分類の限界かもしれない。

ここまで来て、途方に暮れる。

普通の人は図書分類の知識がないと思う。

NDC(日本十進分類法)」「NCR」や「BSH」のことを避けて、図書分類について語ることが自分には出来ない。
NACSIS」もそうだし、「NDLC」もそうだし・・・



武田泰淳は、”生き恥晒した男である”*3
何故なら代表作品(短編以外)が全て未完のままだからだ。
それでも『快楽』は凄いし、彼ほど人間を深く追求した作家はいない。

快楽〈第2巻〉―けらく (1972年)

快楽〈第2巻〉―けらく (1972年)

だ・か・ら・、この文章も尻切れトンボだが、UPしよう。

自分も生き恥晒しているナ・・・。

これが、今の自分のブログの現状です。

下調べをするのもなんか姑息に感じるし、かといってブログの為に本を準備するのもイヤだ。

テクストの引用に終わり、自分の考えも碌に述べられないのが現状だし・・・。

また、”ゲイ”に特化するのも真っ平ゴメンだ。

自分はゲイも普通に本をも読み、ミステリを読み、SFを読み、DVD・映画を観て、音楽を聴いて、漫画等の趣味も楽しみ、なおかつ仕事に嫌々ながら拘束されつつ、その合間を縫ってブログを書いて、ただただ、”フツーに生きている”ことを示したかった。
ニュースの紹介(翻訳)も別のグループに貢献したいけどやめた。

Youtubeも削除の嵐で、過去の自分のブログの惨状をみて呆れ果てている。

この惨めな流産記事(溜まった下書きが、少ないブログ数を上回っている。その中で一番無内容のを選択)をUPして、暫く沈黙をします(数週間だとは思うが。Twitterは継続します、ブログ代わりに)。



”では、百年後まで、ごきげんよう!”


P.S.1.このセリフの引用元は”涅マユリ”。下記にそのYoutubeを(最後も漫画で締めくくる、自分らしい)。

P.S.2.Twitterをはじめたせいで、チョッとした思い付きからブログを書く、ということが出来なくなった。
ただ、その分は”デジタルガレージ”の株を買って回収出来た(ただでは転ばないゲイなんです。微笑)。

P.S.3.親の逝去に伴い、猫と実家で暮らしています。このブログを始めた本当の理由は、孤独から逃れたいということだったと思う。
ブログは孤独な魂の集積所で、これも一つの方法だろう。

*1:宮崎興二氏の『なぜ夢殿は八角形か』を指す。この本オモシロ過ぎる。専門は四次元建築論てどんなんだ?

*2:鶴見俊輔は、この作品を「人生二度目の衝撃」と吹聴しているが、まぁ読んだから許す。

*3:史記の世界』の書き出しを引用

エミリー・ディキンソンについての小さなメモ−死人を起こすな!

エミリー・ディキンソンに、特別な思い入れは無い。
ただ、気にかかる事があったので取り上げてみたい。

対訳 ディキンソン詩集―アメリカ詩人選〈3〉 (岩波文庫)

対訳 ディキンソン詩集―アメリカ詩人選〈3〉 (岩波文庫)

(例によって、”詩人の記事”は詩を引用するに限る)。

わたしは苦悶の表情が好き

わたしは苦悶の表情が好き、
真実なのだと分かるから──
人は痙攣の真似などもしない、
劇痛を、装ったりもしない──

いったん眼がかすんできたら―それはもう死です──
見せかけることなどできはしない
質朴な苦渋をつらねた
額の汗のじゅず玉を。

彼女の詩にはダッシュが多用されているが、訳者はこれを”あらゆる句読点の代用であり、一種の息づかいをあらわすもの”と評している。

金色に燃え上がり紫に沈む

金色に燃え上がり紫に沈み
豹のように空に跳び
それから昔ながらの地平線の足もとに
斑点のついた顔を横たえて死に備え
かわうその家の窓まで低く身をかがめ
屋根に手をのばし納屋を色に染め
牧場に向けて帽子で投げキスをし
一日の魔術師は行ってしまった

ディキンソンの詩には、”死”をモチーフにした作品が、初期から多数ある。
大学時代に、非常に活発だった彼女は、あることを契機に故郷のアマーストの実家に帰り、
そこで、一生を過ごした。

わたしは葬式を感じた、頭の中に

わたしは葬式を感じた、頭の中に、
そして会葬者があちこちと
踏み歩き―踏み歩き―とうとう
感覚が破れていくように思えた──

そしてみんなが席につくと、
お祈りが、太鼓のように──
響き―響き続けて―とうとう
わたしの精神は麻痺していくような気がした──

それから彼らが棺を持ち上げ
またもや、あの「鉛の靴」*1をはいて
わたしの魂をきしみながら横切るのをが聞こえた、
そして天空が―鳴りはじめた、

まるで空全体が一つの鏡になり、
この世の存在が、一つの耳になったかのように、
そしてわたしと、沈黙は、よそ者の種族となって
そこで、孤立して、打ちくだかれた──

それから理性の板が、割れてしまい、
わたしは落ちた、下へ、下へと──
そして落ちるごとに、別の世界にぶつかり、
そして―それから―知ることを止めた──

この辺りで、彼女の一生を知っておいた方が理解の一助となると思い、紹介。

アマーストに蟄居して、発表されるあてもない詩を書き続けた彼女。
だが、その内面は”死”といった暗いものばかりではなかっただろう。

蜘蛛は銀の玉をかかえる

蜘蛛*2は銀の玉をかかえる
目に見えぬ手に──
そしてひとり軽やかに踊り出しながら
真珠の糸を―くり出す──

彼は無から無へと往復する──
稼ぎにならぬ商売に従事して──
わたしたちの壁掛けを自分のに取りかえる──
あっという間に──

一時間で壮麗に築き上げる
彼の光の大陸を──
と思うと主婦の箒からぶら下がる──
自分の国境を―忘れて──

このような自然観察詩も、彼女の得意とするところであった。
そこには、茶目っ気と諧謔の詩心が溢れている。

彼女の代表作を一つ。

わたしは「美」のために死んだ──が

わたしは「美」のために死んだ──が
墓に落ちつく間もなく
「真」のために死んだ人が、横たえられた
隣の部屋に

彼はそっと疑問をもらした、「どうして失敗したんだろう?」
「「美」のためよ」とわたしが答えた──
「いやぼくは―「真」のため―けれどこの二つは一つ──
兄弟だよ、ぼくたちは」と彼はいった──

それで、ある晩会った、親類として──
わたしたちは部屋ごしに話し合った──
やがて苔が唇にせまり──
おおいつくすまで―わたしたちの名を──

自分が気に入った作品も。

手負いの鹿は―もっとも高く跳び上がる──

手負いの鹿は―もっとも高く跳び上がる──
猟師がそう語るのを聞いたことがある──
それはまさに死の法悦──
それから草むらは静まり返る!

水がほとばしるのは打ち砕かれた岩!
はね返るのは踏みつけられた鋼
頬はいつもきわ立って紅い
消耗熱のくらいつくところが!

歓楽は苦悩の鎧──
これを着て苦悩は用心深く武装する、
誰かが血をみつけて
「傷ついてるわ」などと叫ばないように!

確かに彼女の私生活は、孤独なものだったろう。特に晩年は。
それでも、彼女は詩作に耽った、あたかもそれが彼女の存在証明のように。

そんなエミリー・ディキンソンは、そっと一人で読むに限る、が。

この文章を偶々目にして、呆れ果てたのがこの記事を書いた動機。
その文章を紹介しておく。

エミリー・ディキンソンをこのリストに加えるのは全くの見当違いだという意見もあるかもしれない。だが謎めいた部分があることはたしかだろう。少なくとも、ディキンソンは女性たちと深く親密な交際をしていたし、信仰の面でも常人ばなれしていた。そして婚姻というものに抵抗する女性のまさに典型であった。(中略)そればかりでなくこういった生き方は特にレズビアンたちの共感を集めるのだ。レズビアンあるいはフェミニストの視点でディキンソンの人生や作品を読み解こうというすぐれた論文が最近多く見られるのは、その証拠である。過去百年間、学者たちはエミリー・ディキンソンが異性愛者だったことを証明しようとしてことごとく失敗してきたのだが、今後の百年間ではレズビアンだったことがみごとに証明されるにちがいない。



『ゲイ文化の主役たち』p147より抜粋

ジェンダースタディーズってこんな低レベルなのか?
この本、一応影響力のあったゲイ100人を順位づけし、紹介しているが冒頭にはこうある。

このリストに名前の出ている人のうち何人かを見て、驚く人もいるかもしれない。しかしゲイであることをこの本で「すっぱ抜き/アウティング」したという例はない。いずれも記録に残っている歴史的事実である。



『ゲイ文化の主役たち』p19より抜粋

もう馬鹿馬鹿しくて、こんな研究をしている学者?なんか要らない、いや障害になる!

「死人を起こす」*3ような真似はよせ!

墓の中で、こんな事をやっているとエミリー・ディキンソンが知ったら、どう思うか?

その答えを生前の彼女の詩から引用して終わる。

わたしは誰でもない人!あなたは誰?

わたしは誰でもない人!あなたは誰?
あなたも―誰でもない人?
(略)
まっぴらね―誰かである―なんてこと!
ひと騒がせね―蛙のように──

P.S.今回は全面的に亀井俊介氏のテキストを勝手に引用させていただきお詫びをします。
せっかくの対訳本なので、原語も同時に紹介すべきだったと思います(特に彼女の大文字の使用面等で)。

*1:Boot of Lead、棺をもったり、棺に付き添ったりする人々の靴。

*2:人々の嫌う蜘蛛を芸術家に喩えている。

*3:ディクスン・カーの作品タイトルを借りました。

「ゲイ文学は、いまや存在しない!」−

愛聴CDのみを収めたCDケースが見つからない。
朝から探しているのだが、無い!どこにも無い!決して持ち歩かず、自室においてあるのに。
必死になって探しまくるも、無い。
猫の図書館(分室を含め)全部探し、約一年くらい足を踏み入れて居ない部屋も、猫の実験室*1も全て探した。
この猫屋敷は、自分一人で住むには広すぎるのだ。
結局出た結論はこうだ。

なんてこった・・・でも間違いない・・・・・・
この人類最高の頭脳の持ち主、超天才アル・ボーエンにははっきりわかる。あり得ない事を除いて残ったものはどれだけ馬鹿らしく見えても、真実でしかない!!


「ARMS/アームズ」15巻より

Arms 1 (少年サンデーコミックスワイド版)

Arms 1 (少年サンデーコミックスワイド版)

*2
そう、可能性は二つ。ポーの『盗まれた手紙』のような見落としか、盗難に入られたかのどちらかだ。

怒りが収まらず、その矛先を何処に向けようか?とこの文章を書き出した。

タイトルと数行のみの下書きは、溜まっているのだが、いまいちUPする気がしない。
(本当は”骨”というタイトルの記事の準備をしていたのだが)。

以下、引用と支離滅裂な文章なので、ご注意を!




自分が知っている”ゲイ文学”ガイドみたいな本は一冊のみ。

耽美小説・ゲイ文学ブックガイド

耽美小説・ゲイ文学ブックガイド

この本は柿沼瑛子氏の慧眼もあり、優れた同性愛小説の入門として読んだ。*3
だが、如何せん、情報が古く、ゲイ・シーンも変化している。*4

それ以降、”ゲイの文学”という括りを主題とした本は目にしない。
あっ、一冊あった。

ゲイ短編小説集 (平凡社ライブラリー)

ゲイ短編小説集 (平凡社ライブラリー)

この本の解説から抜粋する。

・・・さらには無名の作家の埋もれた作品を発掘して、来るべき新世紀におけるゲイ文学の聖典 Gay Canon*5 を準備することが、このような選集の編者に求められる責務であるとの声も上がってしかるべきである。編者の非力を顧みずにいえば、新世紀における、いや新ミレニアムにおけるゲイ・キャノンは絶対に樹立すべきであり、その試みに躊躇はいらない。この点を認めたうえで、ゲイ・キャノンの可能態として本書のような形式もまた有効であることを確認しておきたい。



『ゲイ短編小説集』解説より抜粋

ゲイ・キャノンについては一度触れた(誰も読んでいないだろうが)SF作家の”ゲイの檻”−「トマス・M・ディッシュ」
トマス・M・ディッシュ」のようにゲイ・キャノンに掲載されるのは真っ平ゴメンだという作家もいる。
この編者の「いや新ミレニアムにおけるゲイ・キャノンは絶対に樹立すべきであり・・・」というのが納得出来ない。
今現在、新ミレニアム?に既に突入しているが、果たして編者の主張は、未だ有効か?
自分はそうは思わない。
こと、文学(他のアートでも云えるが)ことさら”ゲイ作品だ!”と線引きする時代はもう過ぎた。
あるのは、”良い文学とダメな文学”だけだろう。

更に引用。

となるとどこでストレート・フィクションが終わり、どこからゲイ・フィクションがはじまるかという問題は意味をなさない。むしろストレート・フィクションとゲイ・フィクションは表裏一体化している。もしそうならストレート・フィクションをゲイ・フィクションとしてカミングアウトさせることもできるだろう。その試みへの小さな一歩、それが本書なのである。



『ゲイ短編小説集』解説より抜粋

あらかじめ断っておくが、自分は他人を傷つける行為を一番嫌う。
この編者の本の意義も認めよう。
だが、上記の引用部分は何をいっているのか分からないし、”ストレート・フィクションをゲイ・フィクションとしてカミングアウトさせる・・・”という考えは理解不能だ(逆差別とも繋がるし、そんな行為になんの価値も無い)。


引用本を変える。

20世紀文化の臨界

20世紀文化の臨界

アメリカでは、ゲイやレズビアンも普通の市民であるということが、少なくとも都市の知識階層においては、ある程度まで常識化した。さらには、もっと多形的なものまで認めようというのでクイアー(変態)という言葉も出てきた。そういったゲイ&レズビアンの解放やクイアーへの展開というのは結構な話だけれど、そのことでホモセクシュアリティを脱性化し、多様な差異の戯れに解消すべきではない。



『20世紀文化の臨界』by浅田彰*6p114より

”ある程度まで常識化した”という発言は、浅田氏らしい傍観者の知識階層のもので、これに異を唱える人も多いだろうし、そこまでゲイ&レズビアンが常識として認知されているとは自分も思わない。
(現に、インテリのホモフォビアが毎日のようにメディアに取り上げられている)。
この引用は「J.ジュネ」についての対談からだが、更に「J.コクトー」についての対談から引用する。

笠井 コクトーのなかでやはり避けて通れない、何か重さをもったものとして残る問題があるとすれば、それはホモセクシュアリティの問題ではないかと思います。(中略)

浅田 ただ、コクトーがゲイだというのは当時から分かりきったことだったので、「彼はそのような性的アイデンティティを抱え、それを原動力として創造した人だ」といまになって言ったって別に新しい発見はないと思うんですよ。ジェンダースタディーズなどが意味を持つとしたら、コクトーの性的アイデンティティと表現といった問題よりも、逆にブルトンをはじめとするコクトー嫌いにおけるホモフォビアの問題の方に適応されるべきではないか。シュルレアリスト・グループ内にもクルヴェル*7のようなゲイがいたにもかかわらず、外部のターゲットであるコクトーに敵意を集中させて内部のホモソーシャルな団結を保つ。それはさほど複雑な問題ではないにせよ一応の分析を要するでしょう。他方、コクトー自身は、同性愛について無意識の葛藤を抱えていたとは思えない。(中略)
そもそも、僕は「ゲイ文学」とかいう分類に賛成ではないしコクトーにはそういう分類が最もふさわしくないと思うんですよ。(中略)
・・・それもあってマザー・コンプレックスが強かったとか、そういう紋切り型を言えばいくらでも言えるし、さっきから言われている凹型の主体の在り方にせよ単性生殖的な創造の在り方にせよ同性愛的欲望と結びつけて考えるのは簡単でしょう。けれども、新しい発見がそこから出てくるとはちょっと思えないんですよ。

松浦 いやあ、議論を封じられてしまいましたね(笑)



『20世紀文化の臨界』by浅田彰p91〜92より

正鵠を射るとはこういう発言を指すのでは?

自分も”ゲイ文学”という括り&分類&線引きには、意味が無いと思うし、”ゲイを扱った作品だから”と同レベルのヘテロの作品より注目を浴び、評価されるとしたら愚昧な行為でしかない。*8

もし、作品の区分で”BL”というカテゴリーなら、その意義もあるだろうが、ゲイ文学というのは今のゲイ・シーンを取り巻く現状&時代にそぐわないし、ゲイの立場からも反対する。

ゲイ文学というのが現時点で存在しうるなら、それは純粋なゲイポルノ小説の類にのみ適用される呼称だろう。


P.S.最近は左利きの若者が多い。これは”左利きは矯正すべきだ”という旧来の社会的風潮の変化がもたらした結果だと思う。
ブロ友?のA氏がこう興味深く指摘していた、”やがてゲイも左利きと同様な存在となる”と。
卓見だと思う。

*1:電子回路&化学実験装置等を詰め込んだ部屋。別に”猫を実験”しているのでは無いので誤解のないよう。

*2:過小評価されすぎ?必読漫画です!

*3:全くゲイの作家を知らない人たちで、どうしてもゲイの作家を知りたいという人には是非推薦する。

*4:絶版本が多いし、状況も大きく変化を遂げたのでここではこれ以上この本には触れない。

*5:興味がある人なら自分で調べてネ!

*6:現代思想」6月号の”レム・コールハース特集”で対談している、少し痩せたか?建築については興味ないし、ド素人なので立ち読みだけしたが。

*7:René Crevel - Wikipedia

*8:「魔女の息子」がその一例だ。この本の感想は後日述べる

『地球が静止する日』−

地球が静止する日』を観た。

以下はネタばれ&個人の意見なのでご注意を。

この映画は『地球の静止する日/The Day the Earth Stood Still』のリメイク版で、原題は同じも邦題が『地球が静止する日』と”が”と”の”が違うだけ。
(参照:地球の静止する日 - Wikipedia)
1951年の方は観ていません。

で、感想です。

“Ninety percent of everything is crap”.


Sturgeon's law - Wikipedia

この”あらゆるものの90%はクズだ”という法則(このスタージョンの格言?の詳細は知らなかった→スタージョンの法則 - Wikipedia)は、この映画には当てはまらない。
敢えて言い直そう。

”新作SF映画の99%はクズだ!”


by FeliscutusverXの法則(自作です)

(海外の感想ブログもみても)この映画の一番の注目シーンはただ一点、キアヌ・リーブス扮するクラトゥ*1が、バッハのゴールドベルクを聴き、感動するシーンだけ。

それ以外は、血圧上昇剤の役割しか果たさない作品です。
以上。

で、終わるとあんまりなので、この短く流れるゴールドベルクは誰が演奏しているか?という疑問を誰もが持つ。
映画のクレジットなんて、普通自分は最後までみないが、この作品だけは目を皿にして見入った。
「Ryan Franks」という人のパフォーマンスになっていた。
先に、海外のブログもみたと書いたが、やはり観た人は気になるらしい。
(一例→Google グループ
ライアン・フランクスって初耳(まぁ自分はクラシックに疎いから)だが、こういう人らしい。
http://ryanfranksmusic.com/
結局、誰の演奏かは不明のままだ(これは映画会社の作戦の一つか?と疑いたくもなった)。
グールド?グールドなら新旧どちら?それとも他のピアニスト?


同じくバッハを使った映画は沢山あるんだろうが、個人的に印象深いのは『惑星ソラリス』だ。

この作品『惑星ソラリス』全体では、”「われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ/Ich ruf zu dir, Herr Jesu Christ」(BWV639)”が実に効果的に使われている。
タルコフスキーは、他の作品にも沢山音楽を効果的に使用しているが、ここでは書かない(いつか書く?書きます、暇な時に)。

同様に音楽を効果的に使用した映画監督といえばS.キューブリックだろう。

キューブリック映画の音楽的世界 (叢書・20世紀の芸術と文学)

キューブリック映画の音楽的世界 (叢書・20世紀の芸術と文学)

この本を読んで、キューブリックがどれほど”映像と音楽”に執着していたかを初めて知った。*2

キューブリックの作品を幾つかYoutubeから紹介してみよう。
2001年宇宙の旅』や『時計じかけのオレンジ』での、クラシック使用例では芸が無いので、「ペンデレツキ」と『シャイニング』を。

以上、『地球が静止する日』を観て、怒りを忘れる程落胆して、脈絡の無い文章を書きました。
書くほどの内容ではありませんでしたが、読んだ方は怒らないで下さい(ゴメンナサイ!)。

P.S.けなしてばかりも、この映画でキアヌ・リーブスのファンになりました♪

*1:何故宇宙人に名前があるか?冒頭のシーンは何なのか?等々、ケチを付けだすとキリが無いので書かない。

*2:ただ、著者はクラシックの知識が自分レベルだが・・・。

イヴ・タンギー(Yves Tanguy)-孤独

イヴ・タンギーの家 (by アンドレ・ブルトン


イヴ・タンギーの家
そこには夜にしか入れない
   嵐のランプをもって
外は透明な地方
占い師の得意な壇場
   嵐のランプをもって
   あんまり働くので目にもとまらぬ製材所とともに
そして空のクレトン更紗
   きみよ、超自然を狩れ
   嵐のランプをもって
   あんまり働くので目にもとまらぬ製材所とともに
   サクレ・ブルーのすべての星とともに
彼女は投縄、支柱の子
泳ぐザリガニの色をしている
   嵐のランプをもって
   あんまり働くので目にもとまらぬ製材所とともに
   サクレ・ブルーのすべての星とともに
   ただ一本のアンテナでどこへでも連れ戻される電車とともに
つながれた空間、縮小された時間
おのれの箱部屋のなかなるアリアドネ   
   嵐のランプをもって
   あんまり働くので目にもとまらぬ製材所とともに
   サクレ・ブルーのすべての星とともに
   ただ一本のアンテナでどこへでも連れ戻される電車とともに
   ふね蛸の果てしないたてがみとともに
彼女たちの眼は蔽われている
スフィンクスたちがもてなしてくれる
   嵐のランプをもって
   あんまり働くので目にもとまらぬ製材所とともに
   サクレ・ブルーのすべての星とともに
   ただ一本のアンテナでどこへでも連れ戻される電車とともに
   ふね蛸の果てしないたてがみとともに
   稲妻を放つ砂漠の家具とともに
そこでは殺害が行われ、そこでは傷が癒える
そこでは隠れ家もなしに陰謀が企らまれる
   嵐のランプをもって
   あんまり働くので目にもとまらぬ製材所とともに
   サクレ・ブルーのすべての星とともに
   ただ一本のアンテナでどこへでも連れ戻される電車とともに
   ふね蛸の果てしないたてがみとともに
   稲妻を放つ砂漠の家具とともに
   遠くから恋人たちが交わし合う合図とともに
それがイヴ・タンギーの家だ

アンドレ・ブルトンは文学者としては二流の存在だった。その中で異彩を放つこの詩を引用してみた。

理由はただ一つ「イヴ・タンギー」を紹介したかったから前振りとして。
(一応知らない人の為に→イヴ・タンギー - Wikipedia)これじゃなんにも分からないので、
英語版も→Yves Tanguy - Wikipedia

タンギーは、「ジョルジオ・デ・キリコ」や「ロートレアモン」に熱狂していたというから、元々シュルレアリストとしての資格に問題はなく、すんなりとブルトンらとともに、最初期のシュルレアリスト・グループに加わっていった。

先にブルトンは二流と書いたが、芸術運動のターニング・ポイント(=「シュルレアリスム宣言」、最初の方。)の立役者としての意義は認める*1
事実、ブルトンのもとから、多くの優れた芸術家が巣立っていった*2
(その後のブルトンの指導者としての凋落は御存じの通り)

初期の頃から、タンギーの絵には、生涯を通じて描かれる不思議なオブジェと茫漠とした砂漠のような背景しかない。*3

”不思議なオブジェ”と称したが、当初は”生命体”を連想させるものだった。

これは彼が、幼少期にブルターニュ地方のロクローヌ*4という街で過ごしたこと&船乗りとしての経験をもっていたことと関連がある(と自分は勝手に推測している)。

そう、彼の”不思議なオブジェ”は作風の初期に於いては、海辺の潮溜まりなどにいる貝・ウミウシなどの類の軟体生物or無脊椎生物だったと邪推している。
そう考えると、背景は決して”砂漠”ではなく、果てしなく拡がる海岸の砂浜と解釈できる(しつこいが自分の考えです)。

そして第一次大戦を経て、アメリカに移住するのだが・・・。



閑話休題
美術に関してはブログに向いていないとつくづく思う。
何も、作品の写真の著作権やHTMLの話をしているのではない。
”絵画(に限らず美術全般)は見る”ことを前提としたアートなのだから、文章であれこれいっても仕方ないし、自分にはそんな能力も知識もない。
にもかかわらず、この文章を書いているのは適当なYoutubeを見つけたことと、タンギーを知って欲しいという目的から。

だから、稚拙な次元の低いことをダラダラと書いたことを先にお詫びし、
あくまでも”タンギーがただ好き”という”見た目は大人、頭脳は子供”の所業として容赦願います。
ネットで見る事の出来るサイトを紹介

美術について書くのは、本当に困難だと思う。その第一の理由は、現代美術以外は、テクノロジーの進歩により次々と新発見が続いていること。
(だから、自分は「ダ・ヴィンチコード」を数ページ読んで、そのご都合主義&誤解に嫌気が差して読むのをやめた。)
その他にも問題が多いのだが、ここには書かない(主旨から外れるので)。
閑話休題終わり》



タンギーアメリカに移住してから、彼の作風は変化していった。
生命体の息吹を感じる”不思議なオブジェ”が、無機質の物質へと。
そして、それら金属をも思わせる変化したオブジェは、数を増し、複雑に絡み合うように次から次へと増殖を繰り返していく。

   タンギーはこつこつと
   報告書を記すように
   静かに描いている


その物体は空の果ての骨片の山のようにも思われ、また海底の遺失物のようにも見える。無秩序の秩序ともいうべきその物体は、何かの墜落した結果のようでもあり、人目につかぬ土地に発芽し、生成した植物のようでもある。それらはかたいようでやわらかく、やわらかいようでいて、岩石のよういかたい。



彼方を見つめるタンギーの視線by 飯島耕一

個人的なことだが、いままで二枚の絵画のレプリカを気に入り、わざわざ額縁を作製依頼した。
その一枚が下記の作品だ。
タイトルは「弧の増殖/Multiplication de arcs」
*5


駄文を終えてYoutube紹介。




(フランス語なんて、知らなくてもフィーリングで理解出来る。音楽もGOOD!)

P.S.1.自分は他のシュルレアリスト画家も勿論大好きですが、作品の素晴らしさの割に知名度が低いのでタンギーを紹介しました。
P.S.2.やはり絵画は”見る”に限る!参考本を下記に。

Yves Tanguy and Surrealism

Yves Tanguy and Surrealism

P.S.3.重要な作品「想像上の数/Nombres imaginaires」が紹介したサイトでは見れません、残念。
彼の作品を見る事の出来るリンク集を→Yves Tanguy Online

*1:だが、如何せんブルトン詩の才能に欠けていた

*2:離別といっても、意見の相違といってもよい。だがタンギーは不思議と晩年アメリカ時代もブルトンと友好が続いた。

*3:最初期のタンギー自身が破棄した作品が残っているが、それは除く。

*4:「フランスの最も美しい村々」に選ばれている。

*5:注:これ下記に紹介した河出書房新社の『骰子の7の目(第9巻)イヴ・タンギー』の表紙では"孤の増殖"と誤植になっていた。"弧=ARCH",日本にラルクアンシエル(=虹)というバンドがいるでしょう。それを想像してもらえば話ははやい。なぜSという文字が付くのかって?それこそ自分で調べて欲しい(虹の複数形を説明する程、暇では無い)。さて、タンギーの傑作ではグニャグニャした曲線からなる正体不明の物が多く描かれている。なかでもこの作品に関しては言えばタイトルは"孤(孤独の孤)"が相応しいと思う。こういう偶然のミスが面白い一例を挙げる。或る画家がゲラチェックの段階で、"鳥が動くよ"が"島が動くよ"と指摘された。でも、その画家は誤植の方が良いと周囲に言われて出版したら大好評。以上、放棄したブログを一部訂正しました。はてなも変わっているのでビックリした。

永遠のお別れー『キング・クリムゾン』/やがてお別れ?『アファナシエフ』

「私はここに居たこともあれば、あそこに居たこともある。そしてその真中にも」というキング・クリムゾンの歌にある。一九七四年、モスクワを離れる最後の夜に、私はこのレコード(《クリムゾン・キングの宮殿》)を聴いていたこを思い出す。
(中略)
他方キング・クリムゾンピンクフロイドジェネシス、イエスなどのいくつかのロック・グループは、私にブラームスを想わせる。(私は一九七七年以前に行った録音を念頭においている。彼らの「親和力」を分析し、この問題を考察することが、無意味だとは思わない。)
キング・クリムゾンのもう一枚のアルバム《レッド》は、一種のレクイエムだ。(そのオープニング・ソングは、ブラームスの《第四交響曲》のフィナーレのようだ。)



『音楽と文学の間』ヴァレリー・アファナシエフ

音楽と文学の間―ドッペルゲンガーの鏡像

音楽と文学の間―ドッペルゲンガーの鏡像

この文章を読んだ時は、驚いた。クラシックのピアニストがこれだけロック(まぁプログレ)を聴き、しかも”一九七七年”と、プログレッシブ・ロックの終焉の時期をスバリ言い当てていることに。しかも、ロシアを出国する前夜に「キング・クリムゾン」を聴いているクラシック畑の人ってどんな感性なんだ?
ポリーニ」も「グールド」もこれらの音楽を拒絶した発言を繰り返してしている。
如何に「アファナシエフ」が特異な存在かを如実に示す記述だと思う。

自分にとって「キング・クリムゾン」は『レッド』で終わっていると思う(その後の活動はクズだ)。
ピンク・フロイド」も「ジェネシス」も「イエス」も再結成したりして無様な姿をさらけだしているが、「キング・クリムゾン」も同様だ。’80年代に入り、もう彼らの役割は終わってしまったのだ。

いわゆる”ロックとポップ”音楽には二種類あると思う。一つは、その時代背景無しには共感出来ないもの。もう一つは時代に関係なく、いつでも気軽に聴けるものの二つに。

その意味で、個人的に「キング・クリムゾン」を聴くことは、個人的に、もう無い。

ここで「キング・クリムゾン」のYoutubeを紹介したいのだが、適当なのがない(リーダーの「ロバート・フリップ」はロイヤリティにうるさいのだ)。

太陽と戦慄(紙ジャケット仕様)

太陽と戦慄(紙ジャケット仕様)

結論をいうと「キング・クリムゾン」はデビュー作『クリムゾン・キングの宮殿』という大傑作を残し、『レッド』で見事に終わったのだ。

レッド(紙ジャケット仕様)

レッド(紙ジャケット仕様)



ついでに恨み節。「アファナシエフ」は前掲の本で”地獄に墜ちたシューベルト”という文章を書いている。これ、未だに納得出来ない(彼はいままで5つのシューベルトに関するエッセイを書いていると本書で述べている)。

彼の小説(失踪者etc)を未読で批判するのはフェアではないだろうけど。
(参照:http://blog.intoxicate.jp/content/2008/03/post.htmlhttp://blog.intoxicate.jp/content/2008/04/5_8aae.htmlヴァレリー・アファナシエフ 特別寄稿:死と愉しみ(全訳)第5回(最終回) - intoxicate (イントキシケイト)*1

だが、彼は、自分自身を裏切り、彼の存在に関心を抱いていた人々のうちにあって、彼が代表していたものを裏切ったのだ。
(中略)
私はかつてあるエッセーで、もしシューベルトがさらに十数年生きていたら、ダンテの地獄にいくつかの圏域を付け加えていただろうと問うたことがある。今日なら、人生最後の二年間に、彼は地獄の圏域の第三二章に描かれた自殺者の森の樹木のように、血を流している。


『音楽と文学の間』”裏切り者シューベルト”より


アファナシエフ」は、音楽活動から「著述業」へとこの先転身していくような気がする。


(この前後意味無いので削除しました)。

P.S.プロからみて、彼の演奏ってどう評価されるのか?自分は『平均律』がマトモだなと思う。さすがに『モーツァルト*2はちょっと・・・。
「文学」の素養が豊富なことと、「ピアニスト」として才能があることが相反するとまでは言わないが、「アファナシエフ」は日本で過剰に評価され過ぎていると思うのは自分だけか???

*1:途中で抜けていないのかな?

*2:中沢新一」氏に持ち上げられた影響大!大体『チベットモーツァルト』ってタイトルはなんだ!個人的にはもう、”ニュー・アカ”の時代じゃないでしょう。特に「中沢新一」氏の本など一生読まないと思う。

世間知らずのサスペンス映画鑑賞

「殿下は世間知らずだ」
「何を〜!僕のどこが世間知らずだ!」
「じゃぁ剔抉という言葉を知っていますか?」
「剔抉?」
「ほら知らない、やはり世間知らずだ」


パタリロ』よりうろ覚えの抜粋

昨日、ツタヤでDVDを2本レンタルして観た。色々さがして知らないものを物色していたら『13 ザメッティ*1/原題:13 Tzameti 』というのを見つけた。ケースの紹介に「Uncut」で絶賛!とあるのをみて一瞬誤解したが、すぐにエンターティメント雑誌の「Uncut」のことだなと勘違いに気が付く。





帰宅して、『13 Tzameti 』をネットで調べると随分と高い評価を受けていた(WIKIにもあった)。
13 Tzameti - Wikipedia
ここで、自分の世間知らずを思い知る。情報網がお粗末なのだ。
作品は、全編モノクロの”フィルムノワール風”フランス映画で、新進監督のデビュー作。
感想は(正直いって)、大したことなかった。邦題に”ロシアン・ルーレット”というのがついている通り、拳銃で志願者13人が輪になり、拳銃で弾丸を込めて前方の志願者の後頭部を撃つ。それに金持ち連中が生き残る者に金を賭け合うというだけ。
でも、生き残る者が少なくなるに従って、弾丸の数が増え、最後は4発の弾丸でタイマンでの決着となり・・・(ネタバレを避ける為にここまで)。
海外の高評価の理由に賛同は出来ない作品だが、やはり途中から手に汗を握った。
みながら、主人公の生き残る確率を、頭の中で計算しながら”エーッと、これは独立事象だから”と思い巡らして、まぁ楽しめた。


一つ、細部で気づいたのは志願者の控え室に「ジム・モリソン」のポスターが壁にあったこと。フランスの若手にも『ドアーズ』の影響がまだあるのか!と意外に感じた。
(”ロックは死んだ”)という下書き記事をほったらかしにしてあるので、『ドアーズ』もついでに紹介。

(最初の35秒のモノクロシーンは『ドアーズ』の最高傑作、「セレブレーション・オブ・ザ・リザード」だ、サービスかな?)。

まぼろしの世界

まぼろしの世界

*2


もう一本借りたのは『レイジング・ケイン』。これは今更いうこともないだろう。「ブライアン・デ・パルマ」にしては”甘い”作品だし、「ヒッチコック」からの拝借シーンも相変わらず。それでも借りた理由はドッペルゲンガー、多重人格等々を読み漁っているから。それだけ。でも、やはり「デ・パルマ」は、いいな。

ついでに『Dressed To Kill』も(本当は『Body Double』を紹介したかったけど良いのが見つからない)。

マイケル・ケイン」は本当に名優だ。

P.S.いつか「デ・パルマ」のことを書いてみたいな!

*1:これは明らかに発音が違う。

*2:こんなアルバム他には無い。これで人生が狂った人が何人いることか!