「ゲイ文学は、いまや存在しない!」−
愛聴CDのみを収めたCDケースが見つからない。
朝から探しているのだが、無い!どこにも無い!決して持ち歩かず、自室においてあるのに。
必死になって探しまくるも、無い。
猫の図書館(分室を含め)全部探し、約一年くらい足を踏み入れて居ない部屋も、猫の実験室*1も全て探した。
この猫屋敷は、自分一人で住むには広すぎるのだ。
結局出た結論はこうだ。
なんてこった・・・でも間違いない・・・・・・
この人類最高の頭脳の持ち主、超天才アル・ボーエンにははっきりわかる。あり得ない事を除いて残ったものはどれだけ馬鹿らしく見えても、真実でしかない!!
「ARMS/アームズ」15巻より
- 作者: 皆川亮二
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2007/06/18
- メディア: コミック
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そう、可能性は二つ。ポーの『盗まれた手紙』のような見落としか、盗難に入られたかのどちらかだ。
怒りが収まらず、その矛先を何処に向けようか?とこの文章を書き出した。
タイトルと数行のみの下書きは、溜まっているのだが、いまいちUPする気がしない。
(本当は”骨”というタイトルの記事の準備をしていたのだが)。
以下、引用と支離滅裂な文章なので、ご注意を!
自分が知っている”ゲイ文学”ガイドみたいな本は一冊のみ。
- 作者: 柿沼瑛子,栗原知代
- 出版社/メーカー: 白夜書房
- 発売日: 1993/04
- メディア: 単行本
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だが、如何せん、情報が古く、ゲイ・シーンも変化している。*4
それ以降、”ゲイの文学”という括りを主題とした本は目にしない。
あっ、一冊あった。
- 作者: オスカーワイルド,D.H.ロレンス,シャーウッドアンダーソン,E.M.フォースター,ヘンリージェイムズ,サマセットモーム,サキ,Saki,Oscar Wilde,William Somerset Maugham,David Herbert Lawrence,Sherwood Anderson,Edward Morgan Forster,Henry James,大橋洋一
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1999/12/13
- メディア: 文庫
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・・・さらには無名の作家の埋もれた作品を発掘して、来るべき新世紀におけるゲイ文学の聖典 Gay Canon*5 を準備することが、このような選集の編者に求められる責務であるとの声も上がってしかるべきである。編者の非力を顧みずにいえば、新世紀における、いや新ミレニアムにおけるゲイ・キャノンは絶対に樹立すべきであり、その試みに躊躇はいらない。この点を認めたうえで、ゲイ・キャノンの可能態として本書のような形式もまた有効であることを確認しておきたい。
『ゲイ短編小説集』解説より抜粋
ゲイ・キャノンについては一度触れた(誰も読んでいないだろうが)SF作家の”ゲイの檻”−「トマス・M・ディッシュ」
「トマス・M・ディッシュ」のようにゲイ・キャノンに掲載されるのは真っ平ゴメンだという作家もいる。
この編者の「いや新ミレニアムにおけるゲイ・キャノンは絶対に樹立すべきであり・・・」というのが納得出来ない。
今現在、新ミレニアム?に既に突入しているが、果たして編者の主張は、未だ有効か?
自分はそうは思わない。
こと、文学(他のアートでも云えるが)ことさら”ゲイ作品だ!”と線引きする時代はもう過ぎた。
あるのは、”良い文学とダメな文学”だけだろう。
更に引用。
となるとどこでストレート・フィクションが終わり、どこからゲイ・フィクションがはじまるかという問題は意味をなさない。むしろストレート・フィクションとゲイ・フィクションは表裏一体化している。もしそうならストレート・フィクションをゲイ・フィクションとしてカミングアウトさせることもできるだろう。その試みへの小さな一歩、それが本書なのである。
『ゲイ短編小説集』解説より抜粋
あらかじめ断っておくが、自分は他人を傷つける行為を一番嫌う。
この編者の本の意義も認めよう。
だが、上記の引用部分は何をいっているのか分からないし、”ストレート・フィクションをゲイ・フィクションとしてカミングアウトさせる・・・”という考えは理解不能だ(逆差別とも繋がるし、そんな行為になんの価値も無い)。
引用本を変える。
- 作者: 浅田彰
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2000/05
- メディア: 単行本
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アメリカでは、ゲイやレズビアンも普通の市民であるということが、少なくとも都市の知識階層においては、ある程度まで常識化した。さらには、もっと多形的なものまで認めようというのでクイアー(変態)という言葉も出てきた。そういったゲイ&レズビアンの解放やクイアーへの展開というのは結構な話だけれど、そのことでホモセクシュアリティを脱性化し、多様な差異の戯れに解消すべきではない。
”ある程度まで常識化した”という発言は、浅田氏らしい傍観者の知識階層のもので、これに異を唱える人も多いだろうし、そこまでゲイ&レズビアンが常識として認知されているとは自分も思わない。
(現に、インテリのホモフォビアが毎日のようにメディアに取り上げられている)。
この引用は「J.ジュネ」についての対談からだが、更に「J.コクトー」についての対談から引用する。
笠井 コクトーのなかでやはり避けて通れない、何か重さをもったものとして残る問題があるとすれば、それはホモセクシュアリティの問題ではないかと思います。(中略)
浅田 ただ、コクトーがゲイだというのは当時から分かりきったことだったので、「彼はそのような性的アイデンティティを抱え、それを原動力として創造した人だ」といまになって言ったって別に新しい発見はないと思うんですよ。ジェンダー・スタディーズなどが意味を持つとしたら、コクトーの性的アイデンティティと表現といった問題よりも、逆にブルトンをはじめとするコクトー嫌いにおけるホモフォビアの問題の方に適応されるべきではないか。シュルレアリスト・グループ内にもクルヴェル*7のようなゲイがいたにもかかわらず、外部のターゲットであるコクトーに敵意を集中させて内部のホモソーシャルな団結を保つ。それはさほど複雑な問題ではないにせよ一応の分析を要するでしょう。他方、コクトー自身は、同性愛について無意識の葛藤を抱えていたとは思えない。(中略)
そもそも、僕は「ゲイ文学」とかいう分類に賛成ではないし、コクトーにはそういう分類が最もふさわしくないと思うんですよ。(中略)
・・・それもあってマザー・コンプレックスが強かったとか、そういう紋切り型を言えばいくらでも言えるし、さっきから言われている凹型の主体の在り方にせよ単性生殖的な創造の在り方にせよ同性愛的欲望と結びつけて考えるのは簡単でしょう。けれども、新しい発見がそこから出てくるとはちょっと思えないんですよ。松浦 いやあ、議論を封じられてしまいましたね(笑)
『20世紀文化の臨界』by浅田彰p91〜92より
正鵠を射るとはこういう発言を指すのでは?
自分も”ゲイ文学”という括り&分類&線引きには、意味が無いと思うし、”ゲイを扱った作品だから”と同レベルのヘテロの作品より注目を浴び、評価されるとしたら愚昧な行為でしかない。*8
もし、作品の区分で”BL”というカテゴリーなら、その意義もあるだろうが、ゲイ文学というのは今のゲイ・シーンを取り巻く現状&時代にそぐわないし、ゲイの立場からも反対する。
ゲイ文学というのが現時点で存在しうるなら、それは純粋なゲイポルノ小説の類にのみ適用される呼称だろう。
P.S.最近は左利きの若者が多い。これは”左利きは矯正すべきだ”という旧来の社会的風潮の変化がもたらした結果だと思う。
ブロ友?のA氏がこう興味深く指摘していた、”やがてゲイも左利きと同様な存在となる”と。
卓見だと思う。