石川淳と三島由紀夫−タオイストと芸術家の対話

以下の記事は『石川淳』との対談集の抜粋を中心に書く。
(よってあくまでも「石川淳」と「三島由紀夫」の対談を通して、別の側面からの”三島像”を浮かび上がらせようという主旨です。)
三島由紀夫といえば、自分にとっては、『禁色』と『仮面の告白』だけである。『豊饒の海』は退屈だ。
(むしろ『サド公爵夫人』とか”小説”以外の方が興味深い、エッセイも)。これは、自分がゲイだからという理由とは関係ない。
三島のギリシア体験も、『豊饒の海』もあらかじめ、他の目的の為になされた行為とみえて仕方がない。
自分は小説を読むときに、全体に何が書いてあるか?にはあまり興味がない。ただ、「文体(=スタイル)」だけに目がいく。その点で、三島由紀夫は「文体」こそが素晴らしい。時に天才的にスパークする瞬間の表現を、戦後作家の中では随一、奇跡的になしえたのが彼だ。
この記事を書いているのは、11月25日が、あの防衛庁での自決のあった日だから思いついて書いている。が、あの行為にも、全く興味がない。(と書くと非難をあびるだろうが、個人的思想の実践だろう)。

(「石川淳」は知らない人も多いか?参照:石川淳 - Wikipedia

三島:
ぼく自身の覚悟を言えば、ぼくは虚の芸術家である。虚をもって、河原乞食として小説を書くんだ。その小説は絶対お国の役に立つわけはないし、ぼくがたとい自発的に国粋主義的な小説を書いたって、それは政治に頼まれて書いているんじゃない。ぼくが自然にわき起こって書いているんだから人がどう思おうと知ったこっちゃない。
しかし、それは虚にすぎない芸術にぼくが生きて、そしてどうなるか。それはぼくはインターナショナリストじゃないから、どこにも亡命できると思わないし、日本で死ぬほかないと思っていますがね。その場合に、それじゃ虚と一緒にぼくは死ねるかということを考え出したんですね。ぼくは死ぬために虚でありたくないんですよ、どうしても。死ぬためには実でありたいんです。それじゃお前、具体的にどうするんだと言われたって、まあいろいろ考えていますけれども、国士になるほかないかもしれませんね。

石川:
いや、現に国士だ(笑)

「夷齋座談」 「われわれはなぜ声明を出したか」より抜粋

国士という概念を持つ人は、いまや希だろう。国士である前には、まず(自分達の場合には)「日本人」でなければならない。だが、我々は「日本人なのか?」
多分、「日本人」という観念がつよく出てきたのは明治以降。明治以降に天皇制が確立されてから、日本人という観念と天皇制が結びついた。(カルヴィーノというイタリア作家のインタビューで、イタリア人という言葉が出てこない。現在のイタリアでもどうも「祖国」という観念がないのではないか?イタリア人は「ローマの人」とはいうけれど、イタリア人とはいわない。)
だから、明治以前には日本人という意識が確立されてはいなかった。

石川:
江戸に生まれた奴、京都の生まれた奴はいるけれど、それを一緒くたにして、お前は同じ日本人だと言われたら、おそらく彼らは、そんなこと言われる覚えがないと思うだろうな。

安部:怒るでしょうね、きっと。

石川:
怒るかどうか、途方に暮れるだろう。

「夷齋座談」 「言葉・文化・政治」より抜粋

「日本人」とは、(当たり前だが「日本語を使う」という定義が無難だろう、それ以外にない)
さて、三島由紀夫に話題を戻そう。三島由紀夫は、本当に石川淳を尊敬していた。これだけは間違いない。

三島:
・・・ですから肉体の運動なんていったら、外へ出ちゃいますから、剣術だって危ないんですよ(笑)。だんだん人を斬りたくなってくる。

石川:
やっぱり斬りたいような気持ちになりますか。

三島:
なりますね、どうしても。・・・先生たちは、とってもうまいことを言いますよ。これは人斬る術ではない、とかいうけど、だってあれは、人を斬る術なんだもの(笑)。

石川:
それはばかなことだ。剣が人を斬る術でないなんて、そんなことを剣術使いが言うようになったのは、明治になってからでしょう。

三島:
禅だって、殺人剣、活人剣というけども、やはり殺人剣が、剣の本質ですね。

石川:
そうですよ。

「夷齋座談」「肉体の運動 精神の運動」より抜粋

ここらで息抜きに動画を一つ見てもらおう。

このヴィデオを見て初めて知ったのは三島が煙草*1を吸うことだ。(この頃から彼の思想は変わっていないと感じた。英語も上手!)
さて、ようやく「文化防衛論」に辿り着いた。

石川:
三島君の「文化防衛論」という論文がありましたね。・・・あれは三島美学の卒業論文なんだな、三島君の美学が、よく出ていると思う。ほら、いつか、三島君が大熱演した活動があった・・・

三島:
(笑)『憂国』ですか・・・

石川:
・・・あれが重要なんだな。三島君は、ほかにもいろいろお書きになったが、しばらくそれを別にして、あの活動では、ずいぶん笑わせていただいたな(笑)。こんどの三島君の「文化防衛論」、あれは連隊旗*2だな。

三島:
また、笑わせていただいた・・・(笑)

石川:
いや、あれは笑わなかった。ずいぶん泣かせてくれたですよ。(笑)ぼくだけの体験で言っているんですよ、批評家の言うことは、どうでもいい。つまり、腹切りで笑ったり、連隊旗で泣かせてもらったり、あれで三島美学は、ほとんどわかったと言ってもいいくらい、わかった(笑)。そういうことなんだ。

三島:
お見通しになっちゃったな(笑)。

石川:
つまり、三島君の「文化防衛論」に対する反対は、もう、読むそばから予想される。それは、ぼくの知ったこっちゃねえんだナ。・・・最後に連隊旗、あれは、ほかのやつには書けないな、連隊旗までは書けない。・・・
ほかの奴がどうして書けないか、この秘密は目に見える秘密だ。それはただ一つ、剣術を習ってないからなんだ。これは、ぼくの芸術理論ですよ。

三島:
・・・(笑)

石川:
これは、笑いごとじゃないんだ、ぼくとしては。真剣はいいあんばいに使ってないらしいが、竹刀をいじった技術があるでしょう、三島君には。あれですよ。・・・

三島:
そろそろ肉体の問題にはいってきたんで、非常にありがたい(笑)
(中略)

石川:
・・・ぼくが思うに、御当人、どうお考えか知らないが、これから先・・・これから先という時間を信ずるとすれば、三島君は変化するんじゃないかという気が、ぼくにはある。御当人は、頑迷で、だいたい当人というのは頑迷にきまっているから・・・(笑)

三島:
これはいいね(笑)
(中略)

石川:
変わるとぼくが見てるってことは、三島君をこれほど買いかぶっていいかどうかということがあるんだけどね(笑)

三島:
それは疑問点だな。剣術が出てきたところまではよかったけど、変わるっていうのだと、ぼくが許しても、剣が許さないだろう(笑)。オレは許しても、虎徹は許さない・・・(笑)

石川:
今夜、斬っちゃおう、じゃないか(笑)。そういう剣は許さない、という観念は出ますね。

三島:
今宵虎徹が泣いている(笑)

石川:
それは、ゆっくりおたくの虎徹に相談してください(笑)。

「夷齋座談」「肉体の運動 精神の運動」より抜粋

結局、三島由紀夫は「変わらなかった」。その後の経過は、書くまでもないだろう。

自分自身にとって、『三島由紀夫』とは、本人の意志や思想とは関係なく、その美文である。
その他の事柄は、興味がない。
最後にそんな「美文家」としての三島の英語の動画をUPして終わる。

P.S.この記事は個人的立場から書いたものですので、当然反論があると思う。が、三島由紀夫の一読者として、こういう奴もいるのだとお許し願いたい。
(一応、これでも、三島由紀夫の作品は全部読んでいます)。
また、同性愛者としての三島由紀夫については、次の評論が全てを言い尽くしていると思うし、全く同感だ。
浅田彰【同性愛はいまだにタブーか】

*1:彼の初期の作品に「煙草」というのがあるのは知ってたが

*2:参照:連隊 - Wikipedia