疲れた夜に−『リパッティ』
『ディヌ・リパッティ』の詳細は今更ここで、書くこともないだろう。
疲れた深夜に、秘かに彼のCDを聴く。
『リパッティ』の演奏を聴く度に、”言葉による表現”が如何に無力か思い知る。
一歩間違えれば、通俗な演奏になるかもしれないが、それを許さないのが彼の演奏で、どの演奏もその高貴さを失うことはない。
それをここで書く能力は、自分には無い。また、それが正しいと彼の奏でる音楽が知らしめる。
この「パルティータ」も、グールドの演奏が上かもしれないが、『リパッティ』の演奏にはグールドには無い、決して見出せない”慰め”がある。
ブザンソンで、病をおして、ラストとなるコンサートを行った『リパッティ』。
実は、譚盾(タン・ドゥン、Tan Dun)の事を批判した文章を書きかけたのだが、止めた。
「譚盾」を含めて、二流の現代音楽家たちの音楽は、希にしか疲弊したリスナーの心を癒してはくれない。
(譚盾が二流とは言わないが、”オリンピック”関連で、彼が嫌いになった。元々彼の音楽が、自分の琴線に触れたことなど無いのだが・・・)。
もう一曲彼のYoutubeを。
師匠のコルトーとは偉い差だ。(コルトーにはコルトーの良さを認めるとしてだが)。
個人的なことだが、CDショップで流れていた音楽を聴き、店員さんに「これ誰のCDですか?」と聞いた記憶がある。それが、『リパッティ』だった。
『リパッティ』の病の辛さが、他人には絶対に分からない。当然の事だが、それと同様に病が彼の演奏に暗い影を、一瞬たりとも落としていないことは奇蹟ともいえる。
最後にブゾンソンのCDを紹介して、短い記事を終える。ここでは試聴が出来るので聴いて欲しい。