カフカの日記を読んで−クルタークのCDを聴く

カフカを焚刑に処すべきか?」というセンセーショナルな特集が、戦後間もない頃に共産系の週刊誌に組まれたと知り、多少驚くも、その答えはすでに作者が用意していたなと考えた。
彼は、自分の作品を焚刑に処したいという欲望にかられながら生き続けたし、少なくとも、その欲望にかられながら死んでいった。
すなわち、彼は火刑の執行を友人のマックス・ブロートの手に委ねたという事実。自分の残したものは是非とも燃やしてほしいという意志を死ぬ前に表明しないではいられなかった。
この点で、カフカは、最後までどっちつかずの気持ちから抜け切れなかった。
彼は、作品を書いた。勿論、作品を書いた時と、その作品を焚刑に処するという決心をした時との間には、一定期間の時間が横たわっている。
だが、『書いている最中にも、その作品を焚刑に処すべきだとの考えが一瞬にせよ、カフカの頭の中をよぎることがあったのではないか?』

これまでブログを書いてきて、「作家論」を書くのは「ブログに向かない」とようやく気づいた。
だから、これ以上、カフカ論?を書くつもりはない。ただ、彼の作品が燃やされなかったという《幸運》と同時に、世界には無数の焚刑に処せられた第二、第三のカフカが存在しえたということを、つい自分は想起してしまう(無意味だと理解していてもだ)。
燃やされた無数の名もない《カフカたち》という存在を。

極言すれば、カフカの作品とは、燃やされるために書かれた作品であり、”燃やされる”ということをのみ欠いたテクストであろう。事実、それらの作品は、現にそこにある。しかし、消滅するためにそこにあるので、あたかもすでに無化されてしまっているものとしてあるかの如く存在しているのだ。

ここで、気分転換に『クルターク』のCD『カフカ的断章』を聴いてみる。

クルターク:カフカ断章

クルターク:カフカ断章

この作品は、実に短い断片(フラグメント)からなっている。そして、歌詞はカフカの日記・書簡からの引用のみ。
カフカの日記は、実に興味深いものだが、それ自身が”フラグメント”からなっているといってよいだろう。
歌詞を追いながら、ヴィオリンとめくるめく短いパッセージを聴いていると、ウェーベルンを聴いているかのような錯覚に陥る。

これは、カフカとは無縁ともいえるが、どこか不思議とカフカの匂いを纏った不思議な作品だ。
引用されたテキストがなくても、カフカ的といえるのは、クルタークの語法がカフカに近いからだろう。

カフカ全集〈第6巻〉日記 (1959年)

カフカ全集〈第6巻〉日記 (1959年)