再び赤い悪夢&気を取り直してここらで一服−「呉智英」

まだ、オウム真理教絡みで、知識人&評論家の態度をネット上でさがして、彷徨う。
感想はただただ、”疲れた!”の一言。
どの評論家も、その他の一般のブログも、非難と論争合戦だ。
無数のオウム事件への分析&位置づけの中で、誰が正しく、誰が間違っているのか?
事件とは乖離した不毛なものばかり。後は、ただ司法の判断まちで終焉してしまうのか?
知識人という方々は、何か一般大衆(自分)にこの事件の意味するところを教えてくれたのか?
”自分たちで考えろ”という態度が、現在の日本の知識人の答えなのか?
反省だけなら誰でも出来るが、それすら時間と共に風化し、事件以前と変わっていない。
イヤ、むしろ悪くなっていると思う。
自分を含め、日本人はいつまでも脳天気なのだろう。
再度、こんな事件が起こっても、また忘れ去るという繰り返しのような気がする。
ここ10日間で得た個人的なことといえば、「浅田彰*1と「中沢新一*2の近況を知ったことぐらいか(こんなことはどうでもいいんだ)。
(二人に関しては、忘れていたので”ああ、今こんなことをやっているのか”程度の感想だったが、そんなことはどうでもいい)。
(別にこの二人じゃなくてもよいが)どうして、アンガージュマンし続ける思想家、宗教家、学者等々が不在なのか?
(そりゃ今でもこの事件への発言&行動している人は多数いるのだろうが、いくら努力しようとも、結果の出ない努力は無駄だ)。
個人的には、こんなテロ行為から何か教訓を学ぶ資質が全く欠落しているのがこの国のような気もする。

前回の記事のYoutubeの続きを削除承知で、残り全部UPして、
オウムの話題は本当に終える*3





♭〜♭〜♭〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜♪〜♪〜♪

で、気分を変えたいので「呉智英」を取り上げる。呉智英 - Wikipedia
彼とは、世代が違うせいもあり、その思想スタイルに納得出来ないことも多い。
ただ、気取らずに、地に足のついたそのスタンスと文体には好感を抱いている。
そんな彼の著作から、”軽いところ”のみを紹介しよう。

言葉の常備薬

言葉の常備薬

彼は、WIKIにもあるが、新聞や雑誌の細かい(が大きい)ミスをねちねちと書く。また、それを彼自身も楽しんでいるようだし、趣味とも感じられる。
以下、幾つか抜粋してみる(他の評論家や先生たちのは疲れるので)

私が思わず噴き出してしまうのは、大川総裁に呼び出された人たちの霊がおかしな言葉を口にすることである。例えば、孔子を呼び出すと、孔子は「わしは孔子じゃ」と言って現れる。孔子が日本語を話すのがおかしいというわけではない。なんせ霊なのだから、古代支那語現代日本語に翻訳するぐらい、別に難しくはなかろう。私がおかしいと思うのは、孔子が自ら「孔子じゃ」と名乗ることである。
孔子の「子」というのは敬称で、普通「先生」と訳す。「孔子」とは「孔先生」という意味である。我々は便宜的に「孔子先生」「孔子様」と言うけれど、孔子が自ら「わしは孔子じゃ」と名乗って出現することはありえない。
現に『論語』の中では、孔子は自ら「丘(きゅう)」と名乗っている。姓が孔、名が丘だからだ。


「言葉の常備薬」”翻訳語の漢字には要注意”より

”軽いところ”を紹介すると書いたが、早速差別語が出てきた。
支那」と言う語。これは現在の中華人民共和国は「支那」と呼ぶべきだという彼のかねてからの持論。

私は、テーマごとに新聞記事の切り抜き帳を作っている。そのうちの一つは、人名に関わるものだ。面白い名前を見つけると、その記事をスクラップ帳に保存している。(中略)
・登山家で、八千メートル級の山の六座を八回も征服した人がいる。日本人では唯一人の記録を持つその人は、山田昇さん(朝日新聞86・1・11)。この名前が人生を決めたのだと思う。
・南極探検の犬ぞり用のカラフト犬、タロとジロを育てたのが犬飼哲夫氏だとは、新聞を読むまで知らなんだ。(朝日89・8・1)。


「言葉の常備薬」”名前の不思議、不思議な名前”より

マンガ表現には、もう一つ、無そのものを表すことができるという特長がある。マンガは絵画の一種であるが、普通の絵画では無を表現できない。もちろん、禅画のように宗教的な表現なら、白紙に墨で大きな円を描き、これが禅の精神「無」じゃ、と言うこともできるけれど、具体的・写実的に無を描くことはできない。
・机の上にりんごがある。
これはどんな凡庸な絵描きでも表現できる。しかし、
・机の上にりんごがない。
これはたとえ大天才ダ・ヴィンチでも表現できない。りんごがないというのなら、何も載っていないただの机になってしまう。
マンガだと、どんな凡庸なマンガ家でもこれができる。二コマものにして、一コマ目に机とりんご、二コマ目に机だけ、としてもよい。一コマものにして、机の上に点線でりんごを描き周囲に煙状の線をあしらって消えたことを表してもよい。正確に言えば、これは「無」ではなく「不存在」か「消失」であるが、普通の絵画にはできない芸当である。


「言葉の常備薬」”存在と無”より

歴史の流れの中に遠のきつつある「二十世紀」も、「にじゅっせいき」ではなく、「にじっせいき」である。NHKのアナウンサーは、多くは「にじっせいき」と読んでいるけれど、「にじゅっせいき」と読む人もかなりいる。梨の「二十世紀」は、(中略)現在でも鳥取産が名高い。その二十世紀梨を出荷する段ボール箱に、Nijisseikiとローマ字で正しく印刷されているのを見た時には、農協侮るべからずと感動を覚えた。


「言葉の常備薬」”六から十まで”より

ここまでは、単純に抜粋しただけだが、「差別・人権・宗教」等に触れた過激な文章を避けるのに結構苦労した。

四月四日の朝日新聞朝刊にこうある。
「女性が自転車の女に追いかけられたと110番通報があった。女が女性に向かって『じろじろ見るな』などと怒鳴ったため、女性は近所の家に逃げ込んだという」
加害者も被害者も名前が出ていないのはいいとして、それぞれが「女」「女性」と使い分けられている。「女」も「女性」も意味するところは同じなのに、「女」は悪玉、「女性」は善玉であって、入れ替えはできない。


「言葉の常備薬」”生々しい言葉、よそよそしい言葉”より

呉智英は、こうした重箱の隅を突くor上げ足取りばかりしているわけではない。
むしろ、マスコミには掲載拒否されることを、あえて堂々と書くスタンスこそ彼の立派なところなのだ。
それは、下記の本(オウム事件を含む)で如実に確認できる。

危険な思想家 (双葉文庫)

危険な思想家 (双葉文庫)

最後に面白い?のを。ここで彼は学術用語・専門用語の邦訳について述べている。
その主旨を要約すると「邦訳された用語についてはまず辞書を引け」というもの。
これって”当然じゃないか!”と思われるかもしれないが・・・。

2003年6月4日の朝日新聞夕刊の文化面で、美術評論家高階秀爾*4が興味深いことを書いている。「後期印象派」という言葉は誤訳だというのだ。
後期印象派に属するのは、ゴッホゴーギャンセザンヌなどだが、「これらの画家たちは印象派とは違う別の世界を目指し」「自己の内面世界を表出しようと努めた」。そのため、「印象派の後」という意味でpost-impressionismと名付けられたが、これが「後期印象派」と誤訳されてしまった。
(略)
辞書を引くのは大切だが、誤訳が定着しているのは困ったものだ。


「言葉の常備薬」”考える前に引け”より

たしかに、「後期印象派」と題した文献は後を絶たない。
また、「後期ロマン派」も死語ではない(WIKIではめずらしく新ロマン主義となっているが)。
じゃぁ「新古典派」は?「未来派」は?


P.S.最後に芸術運動のことを書いた本意は、正直いうと別のところにある。
「絵画と音楽」のこと、とりわけシェーンベルクが何故「表現主義(expressionism)」的な絵画を盛んに描いたのか?を記事にしたかったのだ。↓
*5

出会い―書簡・写真・絵画・記録

出会い―書簡・写真・絵画・記録

カンディンスキー」との関わりで。数年間描き続けたあとピッタリと絵画制作を止めたのはなぜか? ↓
*6

*1:ブログ(3回だけど)やってたんだ!

*2:愛知万博に参加してたんだ!

*3:個人体験を含めて、もう死ぬまで書かない

*4:日本美術史学会のドン。和洋美術の全ての分野をカヴァーも、自分は疑っている。現在浅田彰と同じ京都造形大学にいるらしい。

*5:代表作の「赤いまなざし」

*6:右上の黒いのがピアノでまわりに聴衆がいる