石川淳の「佳人」の紹介

小説を書くことなどとても出来ないと痛感させられたのは、石川淳のデビュー作『佳人』を読んでから。
下記にその作品の”冒頭”を引用する。

わたしは……ある老女のことから書きはじめるつもりでゐたのだが、いざとなると老女の姿が前面に浮んで来る代りに、わたしはわたしはと、ペンの尖が堰の口ででもあるかのやうにわたしといふ溜り水が際限もなくあふれ出さうな気がするのは一応わたしが自分のことではちきれさうになつてゐるからだと思はれもするけれど、じつは第一行から意志の押しがきかないほどおよそ意志などのない混乱におちいつてゐる証拠かも知れないし、あるひは単に事物を正確にあらはさうとする努力をよくしえないほど懶惰なのだといふことかも知れない。

当時36歳の作品。
東京外国語大学仏文科トップで出た後、旧制高校の教師となるも共産主義(当時で云うアカ)の学生運動連座して、辞職。
以降”何をしていたのかわからない空白の十余年”を経て書いたのが上記の引用部分。

参照:石川淳 - Wikipedia
(このWIKIには、自分の手持ちの本と経歴に多少のズレがあるが、これは石川淳自身が自分の事を語りたがらなかった態度に起因する)。

わたしはいつかスティグマティゼエション(聖痕示現)のことを考えていた。アッシジの聖フランチェスコがイエスを念ずる心深きに依り掌に十字架の聖痕、主のおん手に打たれた釘痕がまざまざと顕れたというあのはなしである。わが身をがらんどうと思いこむ一念は今や信仰となったのであるが、それを手軽に阿呆の沙汰とかたづける利口面こそおよそ歯がゆくてならなかったもので、わたしがこの鰯の頭の信心に凝りかたまったというよりもそれはどうにも退引ならぬ神格を現じ、わたしは神懸かりのままに引廻される巫女にほかならず、しかも《埴ヲ挺シテ以テ器ヲ為ル其ノ無ニ当ッテ器ノ用アリ》と老子に説かれているような物の用をなすところの無、例えば地の裂け目、木の割れ目、空洞・・・・・空洞こそここにわが念ずる神の姿となって顕れ、かくて、わたしにあっての聖痕示現はまさしく現身のわたしというものが空に画いたうつろの枠の中にそっくり嵌りこむことでしかなかった。―それはつまり死について考えていることだと覚るのにもしばしの合間があったほど死の観念はそのとき非常にゆっくりとわたしに忍び寄って来て、そしてそれが来たときにはもうわたしがおどろくはずはなく、むしろ夢みごこちなるようななごやかさであった。

「言語にとって美とはなにか」で、吉本隆明は、引用したような石川淳の文体を「饒舌なおしゃべり」と評している。
(元々吉本隆明などには、影響を受けていない。というか読んだこともほとんどないし、興味もなかったし、今振り返るとそれが正解だったろう)。


<余談>
石川淳には「焼跡のイエス」、「処女懐胎」とキリスト教と関連のある作品があるが、その辺を論じた文章はお目にかかったことがない。
ただ随筆に「ラゲエ神父」というのがある。この神父と元同僚のジョリィ師を介して、出会った事情の内容。
ラゲエ神父というのは明治初期の仏和辞典の編者であったらしい。

わたしの知る限り、ラゲエ師ほど正確な、上品な、そして豊麗な日本語をはなした外国人はゐない。覺えこんだだけの日本語を達者にしゃべり散らすといふふうではなく、師はうつくしい聲でゆっくり撰ばれた語彙を歌った。
決してクリスチャンではないわたしがうつかりフランスの小説のはなしなどをすると、師は空耳をつかつて聞かざるがごとく、数珠を爪くりながら天の一方を仰いでゐた。その代わり天草の旧い殉教者のことに談が及ぶと、師は瞼にいっぱい涙をたたへて、「トレ、フィデエル、トレ、フィデエル」(信仰深き、はなはだ信仰深き)と繰りかへしてためいきをついた。

ラゲエ師が長崎にかへる前の晩、わたしは教会の食卓によばれた。わたしは信者ではなかったが、ジョリィ師の年少の友人として、教会にはよく出入りしてゐた。
食事がすむと、茶で、これは番茶の中に葡萄酒と砂糖を入れた独特の飲料であつた。旅に立つときの別酒のことを、フランス語でクウ・ド・レトリエ(鎧の一打)といふ。ラゲエ師は葡萄酒のにほひがする番茶を嘗めながら、日本語で、「わらぢ茶でございますね。」といった。わらぢ茶とは元来飛騨地方の方言だそうであるが、それがわたしのきいたラゲエ師の最後の言葉であった。

<余談終わり>

さて、この小説の驚きは、最後の部分で、突如著者が顔を出すメタな展開部分。

ここでわたしのペンはちょっと停止する。もしわたしがこの叙述を小説に掏りかえようとする野心をもっているとしたらば、別にできない相談ではあるまい。この筋書に色をつける程度のことはわたしの細工でもどうやら間に合いそうに思うし、そのための材料なら骨身にこたえるほどうんと背負いこんでいる。だが、すでにこの叙述を書き出してしまった以上、小説のほうはさしあたり書けそうもない。それが書けるくらいならば冒頭にちょっとにおわせておいた老女の物語がとっくに出来上がっているはずである。ではこの叙述を書くらいが精いっぱいのところなのかと冷笑する人がいるとしたならば、わたしはこう答えよう。わたしが何を書くにしてもまずこれを書いておかなければならなかったので、樽の中の酒を酌み出すためには栓を抜くことからはじめるようなものだと。ところで、わたしの樽のなかには此世の醜悪に満ちた毒々しいはなしがだぶだぶしているのだが、もしへたな自然主義の小説まがいに人生の醜悪の上に薄い紙を敷いて、それを絵筆でなぞって、あとは涼しい顔の昼寝でもしていようというだけならば、わたしはいっそペンなど叩き折って市井の無頼に伍してどぶろくでも飲むほうがましであろう。わたしの努力はこの醜悪を奇異にまで高めることだ

そう、これは彼が小説を書くに当たっての宣言だったのだ。

引用が長すぎたが、幾つか付け足しを。

  • この自分の記述(ほとんど引用だけど)で、旧仮名遣いが混じっているのは、手元のテキストの違いと手抜きのせいです。
  • 彼の小説の、後期作品は読む価値ありません(荒魂など)。

以上、現代日本の小説をほとんど読まないので、昔の人を題材に書きました。

普賢・佳人 (講談社文芸文庫)

普賢・佳人 (講談社文芸文庫)

P.S.彼が逝去したのは、自分の東京の猫マンションの徒歩3分の病院でした。