「鏡よ、鏡」−
はし鷹の野守の鏡えてしがな 思ひおもはずよそながら見ん*1
ふと、鏡について書こうと思い、鏡に関する本を読み出すもすぐ後悔する。
ブログに書くには大き過ぎるテーマだと。
そこで、
「まずは、さぐりと削りかの」 by ネテロ会長の言葉
最初にこれを引っ張り出し読む。
- 作者: ユルギスバルトルシャイティス,Jurgis Baltrusaitis,谷川渥
- 出版社/メーカー: 国書刊行会
- 発売日: 1994/12/01
- メディア: 単行本
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次にこれ。
うぬぼれる脳―「鏡のなかの顔」と自己意識 (NHKブックス)
- 作者: ジュリアン・ポールキーナン,ディーンフォーク,ジュニア,ゴードンギャラップ,Julian Paul Keenan,Dean Falk,Gordon,Jr. Gallup,山下篤子
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2006/03
- メディア: 単行本
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ここで、”動物の自己鏡映像認識”&”脳と鏡”&”鏡と心理学”を削る。
ちなみに猫は類人猿と違い、鏡を認識出来ません(実験済)。
一般に鏡といえば、「ラカン*2の鏡像段階」を即、連想するだろう。
それに関して、この本に面白い一節があるので引用。
ラカンの「鏡像段階」は、フロイト派の精神分析医から本格的な哲学者まで、広く引用されているが、神経科学者がラカンの研究に言及することはめったにない。私見によれば、それは二つの大きな理由がある。第一にラカンの考えは、実験との関係が明確ではない。ラカンは、実際の鏡映像認知のデータをほとんど調べていないし、条件を統制した鏡の実験を実施したわけでもない。実験主義者がラカンを敬遠する二つめの理由は、彼の文体にある。たいていの人にとってラカンの文章を読むのは、四月十四日の深夜(最終期日の前夜)になって確定申告の書類に税金額だの控除額だのを書きこんでいる状況と似たようなものだろう。私の同僚は、「ラカンを読んでいると、フェラーリをセカンドギアのまま運転しているような気分になる。もっとパワーがあるのはわかっているのに、速度をあげられなくていらいらする」そうだ。
「うぬぼれる脳」より
(「ハイデッガー」についてドイツ人が「ハイデッガーは未だドイツ語に翻訳されていません」といったセリフを思い出す。)
果たして、「ラカン」は仏訳されているのだろうか?(邦訳の”エクリ”は読めません)。
などと、あれこれ考え、結局この本に落ち着いた。
- 作者: 多田智満子
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1993/09
- メディア: 文庫
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序文で著者はこう書いている。
天然の水鏡から銅鏡へ、銅鏡からガラスの鏡へと、文明の階梯に対応した進化を遂げながら、鏡は古来様々な象徴に用いられることに耐えてきた。映すというそのいささか危険な機能の他に、輝くというさらに眩惑的な性質を備えたこの器具は、日常的な身辺の道具である以上に、本来の意味での「道具」即ち「成道の具」ともなり、あるいは逆に、自意識を増長せしめる破滅の具ともなった。
(略)
もとよりこのテーマは非力な私如きが取組むにはあまりに巨大過ぎよう。鏡はすべてを容れる。森羅万象を映し、森羅万象を映す心を映す。鏡をめぐるトポスは無際限であり、鏡の観照(テオーリア)には終わりがない。以下の文章は折りにふれて鏡面のきらめきを写しとった小さなメモの集積にすぎない。
「鏡のテオーリア」序文より
”ちいさなメモの集積にすぎない”と著者は謙遜しているが、内容は多岐に渡っている。
「ルイス・キャロル」はもちろん、「メルロ・ポンティ」、「フッサール」、「ジェームズ・フレイザー」、「スタンダール」、「寺田寅彦」、「安部公房」、「南方熊楠」、「レヴィ・ストロース」、「ボルヘス」、「レオナルド・ダ・ヴインチ」、「江戸川乱歩」、「李賀(及び唐詩)」、「華厳経(及び仏教)」、「ブルトン」、「フーコー」、「スウィフト」、「エリアーデ」etc,etc。
さらには「バックミラー考」という章まである。
自分も鏡に関する本を、必死に探した(猫の図書館で)。
だが、どうしても鏡というより”ドッペルゲンガー”絡みの怪談、奇談の類しかみつからない。
(たったひとつ見つけたのは、下記の本)。
- 作者: スーザンクーパー,マーガレットマーヒー,こみねゆら,Susan Cooper,Margaret Mahy,角野栄子,市河紀子
- 出版社/メーカー: 偕成社
- 発売日: 1999/09
- メディア: 単行本
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著者の「多田智満子」氏は、「鏡に関しては卒業した」とのべておられる。
(多田智満子 - Wikipedia)
確かに、これ以上「鏡に関する考察」を行った本はないだろう。
今更、自分ごときが付け加えることなどあり得ようもない。
よって「鏡に関する小説」&「鏡の哲学」も削った。
残ったのは、「鏡のテオーリア」で触れられていない「映像」だけ。
と言うわけで、Youtubeを紹介するが、その前に「鏡のテオーリア」中で一番好きな箇所を紹介しておこう。
鏡恐怖症(catoptrophobia)*5という強迫神経症の一種があるが(中略)この鏡の恐怖からのがれるためには鏡を殺すよりほかに手はあるまい。さて、どうやって鏡を殺すか?金槌で叩き割るか?叩き割れば破片の数だけ映像の数が殖える結果に終わるだろう。どうすれば鏡から鏡性を奪うことができるか?
(中略)
次に鏡を窒息させることを考えついた。すなわち、同型の鏡二枚を、鏡面を内側にしてぴったり重ね合わせ、ひもで十文字に縛りあげたのだ。これは鏡の魔性の呪縛であって、己と相似なるものによって圧殺されたとき、今まで他者にドッペルゲンガーを与えつづけてきたこの鉱物質の魔術師は、見事な応報を受けたというべきだろう。
内面を内側にして重ね合わされた二枚の鏡は、互いに互いの無を映し合う以外に何ひとつ対象をもっていない。しかも距離も光もゼロだから、互いの無を映すことすらできず、闇にとざされている。ぴたりと重ね合わされ、十文字に縛られた姿はひとつの完璧な象徴というべきだろう。*6
「鏡のテオーリア」より
(ここにYoutube数本UPしていましたが削除しました)。
逆に”鏡がない”映画「スケルトン・キー」も。
The Skeleton Key - Wikipedia*7
この映画で初めて” hoodoo(ブードゥー教とは違う)”なるものを知った。
Hoodoo (folk magic) - Wikipedia)。
これ残酷シーンゼロで、しかもラストは驚愕!オススメです!!!
http://www.theskeletonkeymovie.com/(このサイトも暫くはみること可能)。
「J.ハート」が手鏡を怖がるシーンのみにしか、鏡はこの映像に出てこないが、鏡のない屋敷の設定だから仕方がない。
P.S.肝心の鏡については、なにも書けなかった。
とめどもなく話題が拡がることと*8、自分の知識&能力不足で。
ここまで書いても、心残りがまだまだ多いな。特に書くべきだったのは「マジックミラー」*9。
マジックミラー - Wikipedia
これは「バルトルシャイティス」や「多田智満子」氏も時代のせいもあり、書いていない。
大体以上ですが、ちなみに、タイトルの「鏡よ、鏡」は「S.エリン」の作品「Mirror, Mirror on the Wall」からで、「白雪姫」とは無関係です。
こうして自分で読み返すと、つくづく内容の無い記事???だと落胆する。
オマケに「音楽」を付け足そう!
「ラヴェル」の「鏡/Miroirs」は平凡過ぎると思い、「ウェーベルン」の「ピアノのための変奏曲 Op.27」を。*10
*11
他に無いと思ったら、もう一個面白いのをみつけたので、UP。
もう一つ。「クラフトワーク」の「Hall Of Mirrors/Spiegelsaal」*12
退屈な曲だ、いま聴くと。同じアルバムからもう一曲。
「Showroom Dummies」を。
途中でガラス(鏡の一種だろう)を割る内容の曲だし、こっちの方がよい。
ここまで来たらヤケだ、さらにもう一つ。
以上、しょうもなさすぎる記事(断じて記事ではないが)を読んだ奇特な方にはお詫びします。
次回からは、”大風呂敷のテーマ”を避けて、ブログらしくします。(この文章は自己満足の児戯だ!)。
*1:解釈は御自分で。
*2:「ラカンはこう読め!/スラヴォイ・ジジェク著」は面白いがラカン理解とは距離がある。じゃぁ「齋藤環」・「福原 泰平」・「新宮 一成」氏らの本がラカンの実像に迫っているのか?
*3:実はちくま学芸文庫版は持っていません(以下の抜粋は大和書房版より)。加筆の可能性大も未確認。
*4:これ、ジュヴナイルで対象年齢12歳。まぁ自分にはこのレベルが丁度よいか?
*5:”Eisoptrophobia”も参照のこと。
*7:見ていない人はプロットは読まないで。
*8:吸血鬼と鏡の関係とか、遊園地のmirror maze(日本語で何て云うんだろう?)、鏡文字etc。
*10:鏡と何が関係あるかって?スコアをみると”鏡像形”が出てくるから。
*11:またまた「G.グールド」で(悪かったね)。酷い画像でゴメンナサイ。
*12:この曲は「ヨーロッパ特急/Trans-Europe Express」収録。歌詞に”From station to station back to Dusseldorf City Meet Iggy Pop and David Bowie”というフレーズがある。また「Siouxsie & the Banshees 」もカヴァーしている。