『ゲイ文化の主役たち』を読んで−その2−『サミュエル・R・ディレイニー』

『ゲイ文化の主役たち』を読んだのは随分前だが、一番驚いたのが『サミュエル・ディレイニー』の項だ。
日本でも彼の名前は有名だ。特に「バベル-17」で、華麗で、煌めく文体に眩惑されたSFファンは多い。

バベル17 (ハヤカワ文庫 SF 248)

バベル17 (ハヤカワ文庫 SF 248)

その後「時は準宝石の螺旋のように」の「然りそしてゴモラ」(1967年ネビュラ賞短編部門 )を期待して読んだ感想は奇妙なものだった。
”ひょっとして、この人ゲイなのか?”とうっすらと思った(当時子供だった)。
時は準宝石の螺旋のように (1979年) (サンリオSF文庫)

時は準宝石の螺旋のように (1979年) (サンリオSF文庫)

そして『ゲイ文化の主役たち』の「サミュエル・ディレイニー」のページを捲った時は、あぁやはりそうだったのかという感想と共に、未訳の引用に赤面した。

居並ぶワゴン車やタクシーの間を歩いてゆくと、セックスの相手に事欠かなかった。
(中略)
・・・トラックとトラックの間で、軽トラックの荷台で、そんなところで×××を出して、口から口へと受け渡し、次は手、次は尻、そしてまた口の中へ。受け渡すのにほんの数秒もかからない。どんな器官でも差し出してやると、口が、手が、尻が、間髪おかずに伸びてくる。
(以下、省略)


「水中での光の動き―イースト・ヴィレッジにおけるセックスとサイエンス・フィクション、一九五七-一九六五」より抜粋

(上記の引用の×部分は自分が勝手に伏せ字にしました)。
あの「ディレイニー」が、なぜ、こんなあけすけな回想録を書いたのか?
一言断っておくが、現実のこんなシーンは、イヤとなるほど経験している(海千山千のゲイなんです)。
赤面したというのは、こういう記述を文章にするのは、自己の美意識???に反するからだ。

なるほど、彼は(ボールドウィンのように)黒人であり、ゲイだという二重の差別を受けてきたのだろう。
だからこそ、現実の”ゲイの実態”を、あえてあからさまに書いたのかもしれない。

だが、しつこいが、こういう描写は嫌いだ。

ともあれ、彼のSF作家としての地位は揺るぎないものとなった。と同時にますますその作品は晦渋なものとなり、翻訳では意味が伝わりきれていないというのも現実だ。

彼の最高傑作?の「アインシュタイン交点」も、とても理解しているとは云えない。
(その辺の事情を少し翻訳者の引用から)
インタビュー:SF:ほら貝

トマス・ピンチョン」が、日本人には理解しがたいように、この作品は、難解だ。

アインシュタイン交点 (ハヤカワ文庫SF)

アインシュタイン交点 (ハヤカワ文庫SF)

ともあれSF作家として、『サミュエル・R・ディレイニー』を認めるのに、やぶさかではない。
それどころか、SF作品を20個選べといわれれば、「バベル-17」は必ず入れる。

しかし『ゲイ文化の主役たち』の彼の項目を見る度に、困惑するのが、ゲイとしての自分の現状だ。
(部分的な、しかも個人の回想録、しかも引用の引用だけとって、”ゲイ”としての彼を評するのは不当だと重々認識した上で)。

最後に、彼のSF作品を読む上で、ゲイであるという視点ははずせないと思う。
そう感ずるので、作品と著者のプライヴァシーを一緒に書いた。(作品と著者の性的指向を強引に結びつけるのは主義ではない)。