中井英夫の『流刑地にて―ホモ・セクシュアルについて』−月光領域に生きる覚悟

中井英夫氏には、生涯一度だけのファンレターを書いたことがある。
返事のハガキには「一度遊びに来て下さい」とあったが、行かずじまいで終わった。
氏の『流刑地にて―ホモ・セクシュアルについて』は1979年9月に書かれたエッセイ。
当時と今の同性愛をめぐる状況は、一変どころか、中井氏も想像だにしなかったろう様相を呈している。

ただし、かれらの群れ集うたとえば新宿二丁目界隈には、もはや月光は断片すら届かず、安手な人工照明ばかりが氾濫する。時折甦ってくる高貴な魂に悩まされ苛立つかれらは、その記憶を打ち消すため、わざと早口のおねえ言葉で”くっちゃべる”のだ。

同性愛者がゲイバーなどに行くのは、そこに同類(中井氏のいう”堕天使”)がいるという安堵感と、同類と、例え会話が成立しなくても、一緒にいられるという”心情的連帯感”の温もりが得られるからだろう。
勿論、単純に”相手”を探す動機で集まる者も多数いるのだが、それらの同類は、現在では「ゲイ・ナイト」という方へ流れている。(或いは中井氏が存命中にも多数東京に点在した”発展場”へ)
ともあれ、中井氏のいう”高貴な魂による苛立ち”は、誰しもゲイバーで経験しているだろう。それは、煩いお喋りとドンチャン騒ぎという、今も変わらない風俗の中で。
ここで氏のいう”月光領域”での体験を引用しよう。

しかし現実にベッドを倶にしなくとも、したような気にさせる男がいることは確かで、府中刑務所で最初の打合せのあと、所内を御案内しましょうということでぶらぶら看守についていった。明るい背広を着ていたせいでシャバそのものに見えたのかもしれない、廊下ですれ違った背の高い若者は、瞬間、息を呑むようにして立ち止まり、怨ずるというのでもない、羨望ともまた違う、喰い入るようなまなざしをこちらに向けた。私もまた看守のうしろで思わず立ち止まった。人恋しさに疚く若者の視線は一瞬の裡に私を灼き、二人がそのまま軀を反転させて入れ変わったような奇妙な錯覚ののち、また事もなく離れて歩き去った。一人は青い獄衣の囚人のまま、一人は背広の見学者として。だがそのどちらが本当の私だかはすでに不分明であり、その若者は一羽の黒鳥として私の裡に棲みついている。獄の内外で二十年の歳月は過ぎたが、その時間はすでに二人を老いさせることはない。これをしも同性愛体験といえるなら、同性愛とは時間の外の愛、もしくは凍りついた時間の中の愛なのであろう。私にとっての黒鳥がこうした月光領域の存在であることはいうまでもない。

このエピソードは、ジュネやコクトーに連なる実に美しい”内的体験”としての同性愛行為だ。

ただ、氏のこのエッセイ全体は、書かれた時代の背景もあり、些か時代錯誤なところもある。それは、同性愛を擁護する内容で、このエッセイの所々にあるのだが、それは氏の責任ではないので触れない。

中井氏が、もし存命だったら、現在のゲイ・シーンについてどう思うだろうか?

ニューヨークの最新ホモ情報などという番組が時おりテレビにも出るようになったが、ディスコのゲイ風俗が果たして文化といえるかどうかはいささか疑わしい。だが、かれらのエネルギーが火山の噴騰のように、ひたすら新しい表現を求め、それを実行してみせるところは大いに見習うべきであろう。日本の堕天使たちの表現方法は、いまのところただ”くっちゃべり”だけに頼っているのはもったいない限りで、手段はさまざまに考えられる筈である。先の雑誌の投書欄*1を見ても、どうやらセックスにかまけて、自分の裡なる才能を開発すること、それに表現を与えることにはあまり思い及ばぬらしい。同性愛者が人と異なった才能を秘めているのは知られたことで、それを花開かせぬまま老いてゆくのではあまりに惜しく、また侘びしい。

この氏の警鐘は耳が痛い。ゲイだから出来ない、ではなく、ゲイゆえに出来る事を、ともすれば現在の同性愛者も忘れがちなのではないか?

結びに、もし氏が存命だったらと先に仮定したが(無意味な行為とは承知!)、例え中井氏が今も生きていたとしても、LGBT運動などに積極的に参加することは決してなかったろう。
そのことは、エッセイの最後の部分でも明らかだ。

・・・いいたいのはニューヨークのゲイパワーを見習うのなら、その爆発的な表現力をこそ学ぶべきで、ローンでマイホームを作りゃすまいし、誠実と真面目の押売りなど無用だろうということだ。その表現は婆娑羅と傾きの方向にしかあり得ず、小心翼々とした人生派は却って本島人*2から冷笑されるだけであろう。乱歩が愛した人外という言葉、二度と再びどんな形でもこの世に生を受けたくないという決意の上にしかユートピアは築かれよう筈がない。

中井英夫は、同性愛者として、徹頭徹尾かれ独自の世界、すなわち「月光領域」の住人であり、そして、同性愛とはもともと「月光領域」に属するとして、人生を終えた作家なのだ。
彼の生き方は、クローゼット入りとはまるで異なり、彼自身の同性愛者としての美学を貫いた特異なものだった。

P.S.中井氏の「虚無への供物」は当初、誤解され余り評判にならなかったが、それを再評価して再注目のきっかけをつくったのが「埴谷雄高」だった。

中井英夫氏の全作品は、勿論読まれた方が多いと思うが、下記の本も是非読んで欲しい。

中井英夫―虚実の間に生きた作家 (KAWADE道の手帖)

中井英夫―虚実の間に生きた作家 (KAWADE道の手帖)

*1:同エッセイの中でホモ・セクシュアルの月刊雑誌について触れている

*2:ストレートを本島人とし、堕天使は地球への流刑囚としている