A Happy New Ear!−微熱に浮かされて−「フランシス・ポンジュ」

「フランシス・ポンジュ」は読まれなくなった詩人の一人だろう。
前回(いつだ?)に引き続き、詩を引用する。(詩はブログに適していると思う)。

ファウナは動くが、フローラは目の動きに従って広がる。
生きている者たちのまるまる一揃いが、地面によって直接的に引き受けられている。
彼らがこの世界で保証された位置をもっているのは、年功順に彼らの叙勲の順序が決まっているのと同様だ。
その点で、放浪性の兄弟たちと違っているわけで、彼らは世界に余分なものとして加えられたものでもないし、地面にとってうるさいわけでもない。。彼らは自らの死場所を求めてさまよい歩くこともない、大地が彼らの遺骸を、他のものたちとおなじように、念入りに吸収してくれさえすれば。
(略)
彼らが死ぬのは脱水、地面への落下、というかむしろその場での萎縮によるものであり、腐敗によることは希だ。彼らの身体のいかなる部位も、そこを刺されれば全個体の死を引き起こすほど特に敏感なものはない。だが風土や生存条件に対しては、比較的に感じ易さの強い反応を示す。
彼ら・・・ではない。彼らは・・・ではない。
彼らの地獄は違った種類のものだ。


「動物相(ファウナ)と植物相(フローラ)」より

海神の太古の衣、世界の四分の三の上に一様に広がったヴェールの擬似的有機体の特権といったものについて語れば、こんなところだ。岩たちの盲目の短刀によっても、たくさんの紙の束を同時にめくる、この上もなく穿つ力の強い暴風雨によっても、骨折って用いられた人間の注意深い眼、しかも他の諸感覚の閉塞を解かれた開口部をもってしては探ることのできぬ環境にあるからして検証不可能な、そして把もうとして延ばされた腕によってさらにかき乱された眼によっても、この本は、結局のところ、読まれはしなかったのだ。


「海辺」より

軟体動物とは一個の存在―ほとんど一つの―特質である。それは骨組を必要とせず、ただ城壁だけを必要とするのであり、チューブの中の絵具みたいな何物かである。
(中略)
ドアを分泌したドア開閉器。軽微に凹面をなす二枚のドアが、そのすべてを成している。
最初にして最後の住居。彼はそこに、死の後に至るまで住む。
彼をいきたままそこから引き出す術はない。
人間の身体の最も小さな細部も、同様にして、また同じ力をもって、言葉にしがみついているのだ、―それも互いに。


「軟体動物」より

なぜかは知らないが私は、人間が、彼の想像力と彼の身体との(もしくは、彼の下劣な社会的、集団的習俗との)珍妙な不釣合を証するものでしかないああした法外に大きな記念建造物の代わりに、さらには、彼の身体の単なる表象でしかない、等身大であるかもしくはそれより少し大きい(私はミケランジェロダビデ像のことを考えている)ああした彫像の代わりに、彼の背丈に合った壁龕、貝殻のようなもの、彼の軟体動物めいた形とはきわめて異なっていながら、それに釣合っている物(この観点からして、黒人の小屋は私をかなり満足させる)を彫ってほしいと思うのだ、
(中略)
この観点からして私が感嘆するのはなかんずく、何人かの節度をもった作家たちあるいは作曲家たち、バッハ、ラモー、マレルブ、ホラーティウスマラルメ―であり、他のすべての者にもまして、作家たちである、なぜならば彼らの記念建造物は、人間という軟体動物の共有する本物の分泌物でもって、彼の身体に最も釣合い最も適合している物、それでいて、考えられる限り最も異なった物でもって、出来ているからだ―その物とは、言葉のことである。


「一つの貝のためのノート」より

このようにして彼らは人間たちにその義務の道をしるしづける。偉大な思念は心情より来たる。道徳的に向上せよ、そうすれば汝は美しい詩句をものするであろう。道徳と修辞学は、賢者の野心と欲望において合致する。
だが、何事において聖者なのか―まさしく彼ら自身の本性に従うことにおいて。ゆえにまず汝自身を知れ。そして汝を汝のあるがままに受け入れよ。汝の数々の悪徳とも和合して。汝の尺度とも見合ったかたちに。
だが、人間に固有の概念は何か―言葉と道徳だ。人間主義(ユマニスム)


「蝸牛」より

長い引用になったが、『フランシス・ポンジュ』の「物の味方」より抜粋した。
『ポンジュ』の詩は、フランス語で読まなくてはよく意味の通らない箇所があまたあるのだが・・・。

とにかく、彼は”物の味方”をすることを決意した。軟体動物や植物について語る時に、彼は、真に、”物のサイド”に立ち、深く肩入れすることで、奇跡的にも物との融合を果たして、そこに写る自意識を詩にしてみせた。

『ポンジュ』は物たちを甘受することに決めたのである。
彼は物たちを受け入れ、あるがままに見る。
彼ら自身のために、彼ら自身のうちに、彼らを愛する。
サルトルは、ポンジュの書物の中に、即自と対自の綜合という、精神につきまとってやまぬあの不可能な企てを、文学の方法によって実現させるべく、われわれの時代になされた努力のうちでも、最も成功したものの一つを見た)。

これ以上、詩について述べるのは無意味でかつその意義を取り違え兼ねないので、引用した詩の一部のバッハのYoutubeを付け足して、この希有な詩人への賛としたい。
ただし、ここで引用するバッハは、『F.ポンジュ』のバッハ観とは、著しく異なっている。
タイトルを”微熱に浮かされて”としたので、微熱に浮かされたバッハを。

物の味方 (1984年)

物の味方 (1984年)

P.S.引用しすぎでしょうか?
また、「A Happy New Ear」とは相当ずれた内容になりスイマセン!