束の間のアンソロジ−『筋肉男のハロウィーン』&『SF戦争10のスタイル』
注文した本が届かない。仕方なく本棚から二冊ほど文庫のアンソロジーを読む。
筋肉男のハロウィーン―13の恐怖とエロスの物語〈2〉 (文春文庫)
- 作者: ミシェルスラング,Michele Slung,吉野美恵子
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1996/11
- メディア: 文庫
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収められた作品の著者は、豪華なラインアップだ。
「ブラッドベリ」、「アーサー・マッケン」、「メイ・シンクレア」、「H.エリスン」、「J・G・バラード」、「R.ブロック」から「コナン・ドイル」までと。
ここで少しだけ触れておきたいのが、「チャールズ・ボーモント」の『倒錯者』。
設定は、男女間の付き合いが禁止された近未来?のディストピア。男同士の恋愛のみが許された世界で、ひっそりと愛し合う男女の物語だ。
「ミーナ!言っただろう―その言葉を使っちゃいけない。そんなの嘘っぱちだ!ぼくらは倒錯者じゃない。それだけは信じてくれ。昔は、男と女が愛しあうのは正常なことだった。男と女が結婚して、子供をもうけた。それがあたりまえだったんだよ。」
『倒錯者』by「チャールズ・ボーモント」
ジェシーは首を振った。忘れろ、と自分に言い聞かせた。気にするな。ミーナは女、おれは彼女を愛している。そのどこにも悪いことはない悪いことはない悪いことはない・・・・・・それともおれは昔の異常者と同じなのか、異常でありながら自分では異常じゃないと信じていた連中と―
『倒錯者』by「チャールズ・ボーモント」
この原タイトルは「Croocked Man」で、1955年に書かれている。時代背景を考えれば”マッカーシズム”の収まらぬ中のアメリカの政治的状況を隠喩したものとも読める。
多分「ボーモント」の心中には、”同性愛擁護”といったことはほとんどなく、権力の圧政が渦巻き、朝鮮戦争のまっただ中でのアメリカ世論、政治的風潮への苛立ちといった感情が作品を書いた動機では?と感じる。
そう、この『倒錯者』が書かれた頃は、未だに第二次大戦の後始末が終結しておらず、冷戦時代がこれから本格化しようという状況だったのだ。この作品を書いて、12年後に彼は短い生涯を終えた*2。
Charles Beaumont - Wikipedia
- 作者: チャールズボーモント,Charles Beaumont,小笠原豊樹
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2006/07/01
- メディア: 単行本
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もう一冊は「SF戦争10のスタイル」。
- 作者: ホールドマン,岡部宏之
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1979/08
- メディア: 文庫
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前書き*3の、このアンソロジーを編集した「ジョー・ホールドマン」から。
しかし、なぜこのアンソロジーを編むのか?戦争のばかばかしさと、憤ろしさは、もうわかり切っているかもしれない。
(中略)
戦争は不自然なものではないといういうテーマを支持する強力な議論を展開することもできる。つまり、戦争は縄張り本能、性的攻撃などの、基本的な生物学的衝動の自然の延長であると。個人的には、私はこれは間違っていると思う。”延長”よりはむしろ”倒錯”の方が機能的な言葉である。私は、人間というものは基本的に、互いに仲良くしようという気質があると感じている。つまり、戦争行為は、権力の場にある人々が、いつまでも権力の場に安住していられるように、(無意識的かもしれないが)注意深く養成している先祖返りの現象だと思うのだ。政治とは、あの伯爵に墓場の中でもう一度寝返りを打ってもらえば、別の手段による戦争行為にすぎない―そして、伯爵や王様や大統領や中央委委員会や上院の親切な助言なしに、人間活動を組織する何らかの方法を見出すまでは、戦争があるだろう、と。しかし、前に述べたように*4、私は客観的でないし、おそらく素直に考えることができないだろう
『SF戦争10のスタイル』前書きより
「ジョー・ホールドマン」についてはジョー・ホールドマン - Wikipediaを参照のこと。
帰国後に、彼が書いた『終わりなき戦い』は”ヒューゴ/ネビュラ”両賞を獲得した。現実にベトナム戦争体験を経て、その直後にSFを書いた彼こそ、このアンソロジーの編者としては最適だろう。
- 作者: ジョー・ホールドマン,風見潤
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1985/10/01
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アンソロジーというのは、並び順も重要だということはいうまでもないが、後書きにこうある。”本編の構成については以前から愛読していた「ドス・パソス」の『USA』を、SFで何とかその手法を使用できないか?”と。それが実現したのが本書だということ。
(ちなみにこの後書きで、一番ページを費やししいる作家が「H.エリスン」。収録作の『バジリスク』への否定的な評論に噛みついて、何倍もの反論記事を書いたという”彼のいつもの行動”が記されている、日本でいえば『筒井康隆』だな)。
「ジョー・ホールドマン」のように戦争を体験した人とそうでない人(自分を含む)とでは、言葉の重みが違う。
”戦争”に関連した本を読むといつもそう思う。
実際の戦争とSFを同レベルで扱うな!と彼に言う資格がだれにあろうか?
しかし、それはもちろんSFである。戦争は、最後にもう一度だけクラウゼヴィッツを引用すれば、人類の交わり(インターコース)の一部である(不作法な駄洒落は翻訳の偶発事故だ)―戦争を止めることは、われわれの性質の動物的な部分を亡ぼすことだろう。そして、この滅亡の最終的な産物は、たとえ天使に近づくとしても、断然ホモサピエンスとは違ったものになるだろう。
たぶん、そうだ。しかし、ここまで考えてくると、われわれはそのような忌まわしい人間であることをやめる時期にきているのかもしれない。たとえ、それが貴重な個人の自由、または自由の幻想を手放すこを意味するとしても。生き残ることに努力を集中し、遺伝子を操作させ、スキナーの箱*5で成長し、攻撃性のどんな兆候にも、罰として自動的に前頭葉切除を加え、臆病者の複製(クローン)人間で成り立った種族。温和で受動的な快楽主義者で成り立った種族。これが嫌なら、他に採りうる道を考えたまえ。
他に採りうる道を探ったのが本書である。十人の作家が十の異なった方向から、”戦争でなければ、ほかに何があるか?”という問題に挑んでいる。
(中略)
しかし、実用性はともかくとして、すべての物語が―希望を持たせたり、ぞっとさせたり、風刺的だったりして―楽しませてくれる。そして、すべてが思考の糧を与えてくれる。希望を与えてくれる作品は、同時に、すてきに面白いものをも与えてくれるのである。
『SF戦争10のスタイル』前書きより
(前後意味無いので削除しました)。
P.S.『ターミネーター3』はつまんないな!