『匣の中の失楽』−双葉文庫版の書評を読んで
『匣の中の失楽』を読んでいないミステリファンは少ないだろう。
が、もし未読なら「双葉文庫版」を推薦する。巻末の書評が実に充実しているからだ。
- 作者: 竹本健治
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2002/10/01
- メディア: 文庫
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最初の文庫版、講談社文庫の解説「松山俊太郎」氏の文章も、そのまま掲載している気前のよさ!
以下、その解説欄の抜粋で記事?とする。
三大巨匠*1の塁を摩す新鋭の超人的(ファウスト)的実験作
竹本健治氏は、処女長編『匣の中の失楽』によって、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』における、暗号に耽溺する超越的推理、尖端科学理論を転用した比喩的洞察、陰微学的暗号図の提出による雰囲気形成などの特色を踏襲し、中井英夫氏の『虚無への供物』における、登場人物の作中作の殺人予告、素人探偵の推理、・告発競べ、色彩と方位の神秘的な関連づけなどの趣向を継承し、ヴァン・ダインを中興とする絢爛たる精神的血脈の、嫡系であることを証明した。
『虚無への供物』からのバトンを受けようとして『匣の中の失楽』が書かれたことは、前者の物語が七月十二日で終わるのに対して、後者の日付が七月十三日から始まる事実にも示されている。松山俊太郎 反転を重ねる現実の中での―眩めく知的青春の悲歌
復習を兼ねた?紹介的抜粋は、これだけにして、下記に『匣の中の失楽』評論の批判的部分を紹介。
最後に多少の問題点を指摘しておこう。裏の系譜の先行作家たちが例外なく共有している、肉体化された観念性―それが『死霊』のような思弁的観念であれ、『黒死館』のようなフェティッシュな観念であれ―がその極点で発散しはじめる、ほとんど倒錯的な魅惑といったものが『匣の中の失楽』からはあまり感じられないということだ。
『匣の中の失楽』は、『虚無への供物』や『ドグラ・マグラ』が作者の思想の表現のために書かれたのと根本的に異なって、読者を入れるべき思想を持っていない。「さかさま」ということが作品のポイントになっているのも、中身のなさを示している。そして、それこそがこの作品の最大の弱点である。
『匣の中の失楽』は、ある意味でいえばこうした先行作品*2のさまざまな要素を掻き集め、ゴッタ煮にしたもので、当時二十三歳だった作者の”独創性”などは細かく腑分けしてしまえば何も残らなくなるのかもしれない。
川村湊 小説という<匣>の中で
『匣の中の失楽』にしても、仮説を含めておびただしいトリックが論議されるわりには、物語の虚と実とがつぎつぎと反転するという作者の構成上のアイデアを除けば、きわだって印象的なトリックは何ひとつないのである。すなわち推理小説としての骨格は意外なほど底が深く*3、作者一流のめくらましによって豪奢なミステリの饗宴が繰り広げられているよう錯覚されるにすぎないのだ。
新保博久 ゲーム的な、あまりにゲーム的な
しかし、なのだ。途中のどこかで、うまく誤魔化されたような気分がして、腹の立つところがある。この点を拡大しないで、結果の素晴らしさのみを言挙げするのは、どうにも不満が残るのだ。
野崎六助 パラダイスとしてのロックド・ルーム
以上、『匣の中の失楽』への評論文から”敢えて”批判的部分を抜粋した。
だが、しかし、上記に引用した評論家たちを含めこの作品価値を大いに認め、賛美することに些かの異論も持っていないのは、勿論のことだ。
では再度、推薦文を引用しよう。
いまさら僕ごときが云うことでもないのだが、『匣の中の失楽』はまぎれもなくミステリ史上に残る傑作である。
巨大な玩具箱のような、とでもたとえれば良いだろうか。探偵小説というものの、ありとあらゆる魅力的な要素をぎっしり詰め込んだ玩具箱。これはそんな小説である。大喜びでこの箱の中に飛び込んだ者は、時を忘れて遊び惚ける内、いつのまにか自分がとてつもない迷宮をさまよっていることに気づいて慄然とする。これはそんな小説でもある。
どこまでも「本格ミステリ」的でありながら、この作品は、自身が単なるそれとして完成されることを頑強に拒む。しばしば「アンチ・ミステリ」という言葉が冠されるゆえんである。それでもやはり―いや、あえてと云うべきだろうか、僕は心からの称賛を込めて、これを「本格ミステリ」の名で呼びたいと思っている。
批判の大部分は、この『匣の中の失楽』という作品は弱冠二十三歳で書かれたこと、及び、処女作品であることを考慮すれば、些細な疵程度のものだ。
自分もこの作品を好むが、惜しむらくは、これが作者の処女作であったという事実のみである。
なぜならば、
「デビュー作を超える傑作を書いた作家は、ごく希だ!」
この残酷な格言?への反例を、竹本氏には是非期待したいところである。