束の間のアンソロジ−『筋肉男のハロウィーン』&『SF戦争10のスタイル』

注文した本が届かない。仕方なく本棚から二冊ほど文庫のアンソロジーを読む。

筋肉男のハロウィーン―13の恐怖とエロスの物語〈2〉 (文春文庫)

筋肉男のハロウィーン―13の恐怖とエロスの物語〈2〉 (文春文庫)

これを読んで、自分の性的指向性をあらためて思い知る。が、それは個人的なことなので書かない*1
収められた作品の著者は、豪華なラインアップだ。
ブラッドベリ」、「アーサー・マッケン」、「メイ・シンクレア」、「H.エリスン」、「J・G・バラード」、「R.ブロック」から「コナン・ドイル」までと。
ここで少しだけ触れておきたいのが、「チャールズ・ボーモント」の『倒錯者』。
設定は、男女間の付き合いが禁止された近未来?のディストピア。男同士の恋愛のみが許された世界で、ひっそりと愛し合う男女の物語だ。

「ミーナ!言っただろう―その言葉を使っちゃいけない。そんなの嘘っぱちだ!ぼくらは倒錯者じゃない。それだけは信じてくれ。昔は、男と女が愛しあうのは正常なことだった。男と女が結婚して、子供をもうけた。それがあたりまえだったんだよ。」



『倒錯者』by「チャールズ・ボーモント」

ジェシーは首を振った。忘れろ、と自分に言い聞かせた。気にするな。ミーナは女、おれは彼女を愛している。そのどこにも悪いことはない悪いことはない悪いことはない・・・・・・それともおれは昔の異常者と同じなのか、異常でありながら自分では異常じゃないと信じていた連中と―


『倒錯者』by「チャールズ・ボーモント」

この原タイトルは「Croocked Man」で、1955年に書かれている。時代背景を考えれば”マッカーシズム”の収まらぬ中のアメリカの政治的状況を隠喩したものとも読める。
多分「ボーモント」の心中には、”同性愛擁護”といったことはほとんどなく、権力の圧政が渦巻き、朝鮮戦争のまっただ中でのアメリカ世論、政治的風潮への苛立ちといった感情が作品を書いた動機では?と感じる。
そう、この『倒錯者』が書かれた頃は、未だに第二次大戦の後始末が終結しておらず、冷戦時代がこれから本格化しようという状況だったのだ。この作品を書いて、12年後に彼は短い生涯を終えた*2
Charles Beaumont - Wikipedia

夜の旅その他の旅 (異色作家短篇集)

夜の旅その他の旅 (異色作家短篇集)





もう一冊は「SF戦争10のスタイル」。

SF戦争10のスタイル (1979年) (講談社文庫)

SF戦争10のスタイル (1979年) (講談社文庫)

原題は『Study War No More』。
前書き*3の、このアンソロジーを編集した「ジョー・ホールドマン」から。

しかし、なぜこのアンソロジーを編むのか?戦争のばかばかしさと、憤ろしさは、もうわかり切っているかもしれない。
(中略)
戦争は不自然なものではないといういうテーマを支持する強力な議論を展開することもできる。つまり、戦争は縄張り本能、性的攻撃などの、基本的な生物学的衝動の自然の延長であると。個人的には、私はこれは間違っていると思う。”延長”よりはむしろ”倒錯”の方が機能的な言葉である。私は、人間というものは基本的に、互いに仲良くしようという気質があると感じている。つまり、戦争行為は、権力の場にある人々が、いつまでも権力の場に安住していられるように、(無意識的かもしれないが)注意深く養成している先祖返りの現象だと思うのだ。政治とは、あの伯爵に墓場の中でもう一度寝返りを打ってもらえば、別の手段による戦争行為にすぎない―そして、伯爵や王様や大統領や中央委委員会や上院の親切な助言なしに、人間活動を組織する何らかの方法を見出すまでは、戦争があるだろう、と。しかし、前に述べたように*4、私は客観的でないし、おそらく素直に考えることができないだろう


『SF戦争10のスタイル』前書きより

ジョー・ホールドマン」についてはジョー・ホールドマン - Wikipediaを参照のこと。

帰国後に、彼が書いた『終わりなき戦い』は”ヒューゴ/ネビュラ”両賞を獲得した。現実にベトナム戦争体験を経て、その直後にSFを書いた彼こそ、このアンソロジーの編者としては最適だろう。

終りなき戦い (ハヤカワ文庫 SF (634))

終りなき戦い (ハヤカワ文庫 SF (634))

アンソロジーというのは、並び順も重要だということはいうまでもないが、後書きにこうある。”本編の構成については以前から愛読していた「ドス・パソス」の『USA』を、SFで何とかその手法を使用できないか?”と。それが実現したのが本書だということ。

(ちなみにこの後書きで、一番ページを費やししいる作家が「H.エリスン」。収録作の『バジリスク』への否定的な評論に噛みついて、何倍もの反論記事を書いたという”彼のいつもの行動”が記されている、日本でいえば『筒井康隆』だな)。

ジョー・ホールドマン」のように戦争を体験した人とそうでない人(自分を含む)とでは、言葉の重みが違う。
”戦争”に関連した本を読むといつもそう思う。

実際の戦争とSFを同レベルで扱うな!と彼に言う資格がだれにあろうか?

しかし、それはもちろんSFである。戦争は、最後にもう一度だけクラウゼヴィッツを引用すれば、人類の交わり(インターコース)の一部である(不作法な駄洒落は翻訳の偶発事故だ)―戦争を止めることは、われわれの性質の動物的な部分を亡ぼすことだろう。そして、この滅亡の最終的な産物は、たとえ天使に近づくとしても、断然ホモサピエンスとは違ったものになるだろう。
たぶん、そうだ。しかし、ここまで考えてくると、われわれはそのような忌まわしい人間であることをやめる時期にきているのかもしれない。たとえ、それが貴重な個人の自由、または自由の幻想を手放すこを意味するとしても。生き残ることに努力を集中し、遺伝子を操作させ、スキナーの箱*5で成長し、攻撃性のどんな兆候にも、罰として自動的に前頭葉切除を加え、臆病者の複製(クローン)人間で成り立った種族。温和で受動的な快楽主義者で成り立った種族。これが嫌なら、他に採りうる道を考えたまえ。
他に採りうる道を探ったのが本書である。十人の作家が十の異なった方向から、”戦争でなければ、ほかに何があるか?”という問題に挑んでいる。
(中略)
しかし、実用性はともかくとして、すべての物語が―希望を持たせたり、ぞっとさせたり、風刺的だったりして―楽しませてくれる。そして、すべてが思考の糧を与えてくれる。希望を与えてくれる作品は、同時に、すてきに面白いものをも与えてくれるのである。



『SF戦争10のスタイル』前書きより


(前後意味無いので削除しました)。

P.S.『ターミネーター3』はつまんないな!

*1:自分は、小説等で”男が女を性の対象”として書いてある文章に嫌悪感を抱くのだ。

*2:後書き参照しました

*3:1976年時点のもの。

*4:彼はベトナム戦争に従軍し、脚部に重症を負っている。

*5:スキナー箱 - Wikipedia

『HELLSING』完結!−吸血鬼について私が知っている二、三の事柄

次に、傷口を舐めながら血を飲む。そして永遠が続く限り続くにちがいないこの時間ずっと子供は泣く。今言ったようにして抜き取った、まだ、ほかほかと温かい子供の血ほどうまいものはないぞ。塩のように苦い彼の涙を別にすれば。人間よ、君はたまたま指を切ってしまったとき、自分の血を味わったことはないか?なんてうまいんだ、そうだろう?


『マルドロールの歌』より

ヘルシング』が完結した(帯によると世界累計400万部突破)。
そうか!「アーカード」を倒す唯一の方法はこれだったのか!(感心した)。
大尉の強さに、シュレディンガー准尉の存在を忘れていた。

もはや彼(アーカード)は、ただの虚数のかたまりだ。


ヘルシング』第十巻 少佐のセリフより

HELLSING 10 (ヤングキングコミックス)

HELLSING 10 (ヤングキングコミックス)


自分はこれまで「ブラム・ストーカー」の『ドラキュラ』を読んだことがなかった、というより”今更吸血鬼なんて!”と、敬遠していたのだが、今回初めて読んでみた。「平井呈一」氏の業績にはお世話になり、尊敬もしているが、今回はこの本で。

ドラキュラ

ドラキュラ

詳細な注釈が(本末転倒だが)、実に興味深く、また作品もこういう日記形式になっているとはまるで知らなかったので新鮮で、楽しく読めた。
ついでに、”ドラキュラ”関連の本を幾つか読んだが、以下”吸血鬼の発祥&伝承&ヴァリエーション”には触れない。
もう百年以上も前に書かれた「ブラム・ストーカー」の”ドラキュラ像”が底本となり、数多の変遷を経て、そして映画の発展を背景に現在まで続いているということで十分だろう。

ここで、ひとつ書いておきたいのだが、『ヘルシング』という漫画は、いまだに制作されている凡百の映画とは比較出来ない出来の良さだということ(映画の「ヴァン・ヘルシング」の駄作ぶりにはまいった、”H.ジャックマン”は好きだけど)。

ヘルシング』の主人公の「アーカード」は、まさに不死の強さを全面に押し出して描かれているので、大蒜どころか、首を切り落とされても死なない。”ドラキュラ=不死”ならこうでなくてはならない。
と、ここまで本作を未読の方のために”ネタばれ”しないように気をつかい書いてきたが、漫画を語るとは”小説を語る”こと以上に矛盾した行為なので、『ヘルシング』についてはここまで。代わりにYoutubeを紹介して一区切り。
(よければ自分の記事も↓
傑作吸血鬼漫画ー『ヘルシング』 - FeliscutusverX,the CHATTER)




ここから少し視点を変えて、ドラキュラをみてみたい。

ロートレアモンの『マルドロールの歌』以来、シュールレアリストにとって吸血鬼の表象は一種強迫観念となったかの観がある。ブルトンは「ノスフェラチュ・タイ」なるネクタイのオブジェまで発明しているし、『ナジャ』のなかでも吸血鬼の表象が重要な役割を演じていることは言うまでもない。


『ドラキュラ・ドラキュラ』種村季弘編の後書きより抜粋

知らなかった。自分の無知を恥じ入るが、ここでシュールレアリズムにまで立ち入っている余裕はない。
ただ、冒頭に引用した『マルドロールの歌』と同性愛に関して少しだけ引用しておくに留める。

少年よ、許してくれ。ひとたびこの束の間の生を逃れたら、ぼくたちは永遠に絡み合っていようではないか。一心同体となり、ぼくの口を君の口に押しつけて。そうしたところで、ぼくの罰は完全ではないだろう。となれば、君がぼくを引き裂くがいい。けっしてやめたりせずに、歯と爪を同時に使って。この贖罪の儀式のために、ぼくは自分の体をかぐわしい花輪で飾るとしよう。そしてぼくたちは二人とも苦しむのだ、ぼくは引き裂かれることで、君はぼくを引き裂くことで・・・・・・ぼくの口を君の口に押しつけて。



『マルドロールの歌』より

なにやら、少年愛の世界になったが、ここには注釈がある。

接吻による少年との合体欲望の表白は、あまりにも露骨な同性愛的構図を作品に導入する。じっさい、やがて呼びかけの中に現れる「金髪のいともやさしい眼をした少年」が、タルブにおけるイジドール・デュカスの年少の友人であったジョルジュ・ダゼットにほかならず、デュカスが彼にたいして(一方的なものであったにせよ)同性愛的感情を抱いていたにちがいないという連想は自動的に働くが、この推測が実証的なレベルで妥当性をもちうるか否かを問うことにあまり意味はない。

まったくもって適切な解説だと思う。

ロートレアモン全集 全一巻

ロートレアモン全集 全一巻






さて、普段”ゲイの作家だって普通に存在する!”と言ってきたが、吸血鬼小説に並々ならぬ熱愛をもつ作家がいる。「ポピー・Z・ブライト」だ。果たして、同性愛と吸血鬼に何の関係があるのだろうか?

ホラー映画全般、吸血鬼映画は特にそういう心理を描く。そう、セックスは怖いもの、セックスは危険なものだと言っている。いますぐにここでそれを証明することもできる。

by「スティーヴン・キング」『クライヴ・バーカーのホラー大全』より

クライヴ・バーカーのホラー大全

クライヴ・バーカーのホラー大全

根本的に、吸血鬼は同性or異性に限らず、性には無関心。ただ、フィクションの中では「禁忌」としての意味合いで共通する部分をもつ。

私は女の身体を持つゲイの男

by「ポピー・Z・ブライト」『クライヴ・バーカーのホラー大全』より

彼女については、次を参照して下さい。
Poppy Z. Brite - Wikipedia
{ P.z.B }
実はこの人の作品が一点だけ邦訳されている。とても”ゲイ・ティスト”に満ちた吸血鬼&同性愛の小説だ。

ロスト・ソウルズ (角川ホラー文庫)

ロスト・ソウルズ (角川ホラー文庫)

*1
文庫版の見開きに魅力的な写真があり、この小説の内容を暗示しているのでUP。
彼女はこう言う。

吸血鬼はあらゆる意味で破壊的な生きもの。そこが魅力的なのだと思う。道徳家が、セックスは悪いことだと”証明”するためにセックスは危険だという事実を引き合いに出す時代に、セックスはいつだって危険だったことを吸血鬼は教えている。
吸血鬼は、セックスや夜や邪悪な空想の魅力を全部持っている。苦痛と背中合わせの冒険、タブーを破る興奮、吸血鬼の人気は永遠に衰えない。それだけでなく、架空の生きもので役割モデルになったのは吸血鬼だけ。

by「ポピー・Z・ブライト」『クライヴ・バーカーのホラー大全』より

以上、強引に”吸血鬼”と同性愛を結びつけた内容になった。

最後に、『ヘルシング』と同様に、日本が生んだ素晴らしい吸血鬼作品を引用しておこう。

その夜、彼は腕の中に黒猫を抱いて部屋に現れたが、黒猫は床に降ろされると、たちまち走り去って消え失せた。
「君の頸筋に触らせて欲しいんだ」
彼はさすがに顔を引き緊めてその頼み事をした。
「頸筋ですか、咽喉じゃなくて?」
「ああ」
「いいですよ。だけどその前に教えて下さい。どうしてこんな手間のかかることをしたのか」
青年は幾枚かの紙片を出した。そこには美しいペン字で、そもそもの初めから彼の喋った事柄が順に書きつけられていた。
悪魔・血の供養・失われた大陸・夭折・麻薬・自白剤・植物毒・変光星・洞窟絵画・暗号・馬の首星雲・・・・・・
「初めて気づいたとき、これを結ぶ糸は”時間”かななんて思ったんです。それから生贄の話をしたときは”血”じゃないかとも思った。それはむしろ当たっていたけど、ばかばかしく単純なことを何だって順番に・・・・・・」
「だけどフェアにはやった筈だよ」


『影の狩人』by中井英夫より

参考とした本を列挙し、「フランシス・コッポラ」の「ドラキュラ」と「インタビュー・ウィズ・バンパイア」を紹介して終わる。
特に後者の原作者の「アン・ライス」氏は”吸血鬼小説”を書きまくっている興味深い人物だ。
(参照:アン・ライス - Wikipedia)

吸血鬼 (書物の王国)

吸血鬼 (書物の王国)

吸血鬼の事典

吸血鬼の事典

ドラキュラ100年の幻想

ドラキュラ100年の幻想

*2



P.S.まだまだ”吸血鬼”、特に様々な短編を紹介したかった。
ひとつ言えることは吸血鬼映画は、まだ死なないということ。

*1:翻訳があの「柿沼瑛子」氏だから、想像つくでしょう?

*2:上記三冊の本に”吸血鬼に関する疑問”で書きたかったことが言い尽くされているので、この自分の文章では省きました。

「チャック・パラニューク」

美しき友あり 鹿の腸なせり

魅惑的な句だが、引用したのは別の理由から。
この句の作者と本(題名)が思い出せないので、探そうにも手段がない。(確か神保町の地方出版物を扱っていた書店に注文したハズ)。
以下、「チャック・パラニューク」について書こうと思うのだが、肝心?の「ファイト・クラブ」を読んでいない。映画の「ファイト・クラブ」の印象が悪すぎて、原作を買う気などしなかった。
今更ながらと文庫版の「ファイト・クラブ」をここ数日探すも、どこにも売っていない。(洋書コーナーにも何故か「ファイト・クラブ」だけなかった)。
上記の句が書かれた本と同様に見つからないのだ。
よって、「ファイト・クラブ」抜きの「チャック・パラニューク」についてのみ書く。
が、ここで小説(文学でもよいが)についての書き方が分からない。

そうですね。「謎」というものの周囲をめぐって小説を書くと、徹底して通俗的になるのだと思いますね。
(中略)
村上春樹の小説は「謎」をめぐって書かれているわけで、もちろん、他の小説家でも思わせぶりな「謎」をめぐって書く人は多いですよね。いちいち名前はあげませんけれど。「謎」を思わせぶりに書くのは小説の退嬰ですね。


「小説論」金井美恵子著より抜粋

小説論 読まれなくなった小説のために (朝日文庫 か 30-3)

小説論 読まれなくなった小説のために (朝日文庫 か 30-3)

自分は「金井美恵子」の全面的支持者ではない(特に「恋愛太平記」とか読めない。彼女は短編、とくに初期のものが好きだ)。

ここで「金井美恵子」氏を引用したのは、”ストーリー紹介を兼ねての感想”を書いてもよいかな?との思惑から。

  • 「サバイバー」

サバイバー (ハヤカワ文庫NV)

サバイバー (ハヤカワ文庫NV)

冒頭が”47章”からはじまるが、さして意味は無い(「コルタサル」の「石蹴り遊び」ではないのだ)。*1”46章”からが始まりといえる。主人公の”テンダー・ブランソン”は、成金夫婦の家の家事一切を任されている。料理から掃除、庭に関してまでだが、ここで「チャック・パラニューク」独特の細かい記述が表れる。だが、さして苦痛ではない。家事をこなしながら、自殺相談の電話(日本でいえば”命の電話”みたいなもの)もこなす。自殺志願者の相談に、”死ねば”、”死んだら?”と繰り返す。庭の手入れの為に、葬儀用の捨てられた花を拾う最中に、”ファーテリティ・ホリス*2”という女性と知り合う。彼女は、夢で未来のあらゆる事を知る能力を持っている。
主人公の”テンダー・ブランソン”は、実はある新興宗教クリード教団で生まれ育っているのだが、この教団では、成人になると、外の世界に奉公に出かけその報酬を教団に送金する。しかし、グリード教団は、ある日、官憲の捜査の手が入ると、集団自殺してしまう。残されたのは奉公に出ていた者だけだが、それも次々と自殺していく。当初は教団の教え通りに自殺しているのだと思われたのだが、残された元信者の数が減るにしたがって、それが”テンダー・ブランソン”の兄、”アダム・ブランソン”による他殺と判明しはじめる。一方”テンダー・ブランソン”は、非人道的な教団の”唯一の生き残り”として、ある敏腕エージェントにより、カリスマ化され、巨大ビジネスの象徴として、全米に知れ渡り、熱狂的な支持を得る・・・。


とここまで書いたが、虚しくなる。無駄な作業だ(面倒だということもある)。
そこで、作品だけ紹介する。

  • 「ララバイ」

聞かせるだけで、人を殺せる”間引きの歌”が載っている”世界の詩と歌”という本を巡り、アメリカ中を旅するお話。

ララバイ (ハヤカワ・ノヴェルズ)

ララバイ (ハヤカワ・ノヴェルズ)

  • 「チョーク」

セックス依存症の主人公が、”ある演技”*3しながら、認知症の実母を介護していくお話。

チョーク! (Hayakawa novels)

チョーク! (Hayakawa novels)

事故で、顔面が崩壊した女性のお話(刺激的という点では、これが一番?)。

インヴィジブル・モンスターズ (ハヤカワ・ノヴェルズ)

インヴィジブル・モンスターズ (ハヤカワ・ノヴェルズ)

洋書も一応紹介(購入したが、読んでいない)。

Diary: A Novel

Diary: A Novel

Haunted: A Novel

Haunted: A Novel

Rant: The Oral Biography of Buster Casey

Rant: The Oral Biography of Buster Casey

Pygmy

Pygmy


さて、ここまで書いて、自分が「チャック・パラニューク」を紹介した理由を書こう(これがこの文章を書いた動機だ!)。
自分は彼がゲイだと知って、興味をもち、邦訳三作品を丁寧にゲイサイドから読んだ。
結論からいえば、作者がゲイだという事実は、作品のどこにも全く影響していないし、むしろ”ストレートの小説家”とさえ思える。

Is he married?
No, but he has been in a long term, committed relationship for over a decade.


Frequently Asked Questions About Chuck Palahniuk | The Cultより

オフィシャルHPの上記の質問の答えもシンプルだ、多くは語らずというところだろう。

というより、
もはや作家がゲイだろうと珍しくもないし、彼の作品から”ゲイテイスト”を読み取ろうとするなら愚かな行為だ!

最後に参照:Chuck Palahniuk - Wikipedia
興味がある人はここから探して。

以上、私事で、ブログを書く時間が取れなかったので、お粗末すぎる内容でした。

いつもなら、ここでYoutubeを紹介して、お茶を濁すところだが、「ファイト・クラブ」はみたくないし、色々さがして、こんなのをオマケに。

*4

P.S.映画の「ファイト・クラブ」をみて落胆した自分は、間違っているんでしょうか?

*1:落丁と間違えないようにと後書きにもあるが、そんな読者がいるのか?

*2:本名は”グゥエン”だ

*3:タイトルに関連

*4:これが一番彼らしいと感じたので、他にも無数にYoutubeはありますが見きれません。

「盤上の神?」−羽生善治&若島正

昨日、「モーフィー時計の午前零時」という本を買う。

モーフィー時計の午前零時

モーフィー時計の午前零時

読む前に「名人戦」を見て、驚く。なんと対局中の羽生善治名人に、こともあろうかサインをねだった人がいる。ニュースについては滅多に触れないつもりも、書いておこう。


(以下余りにもお粗末なので削除しました)。

「鏡よ、鏡」−

はし鷹の野守の鏡えてしがな 思ひおもはずよそながら見ん*1

ふと、鏡について書こうと思い、鏡に関する本を読み出すもすぐ後悔する。
ブログに書くには大き過ぎるテーマだと。
そこで、

「まずは、さぐりと削りかの」 by ネテロ会長の言葉

最初にこれを引っ張り出し読む。

鏡 バルトルシャイティス著作集(4)

鏡 バルトルシャイティス著作集(4)

これを読んで”鏡”のテーマから、”美術”を削り、”平面鏡”に絞ることにした。

次にこれ。

うぬぼれる脳―「鏡のなかの顔」と自己意識 (NHKブックス)

うぬぼれる脳―「鏡のなかの顔」と自己意識 (NHKブックス)

タイトルとは全然違い、”鏡とうぬぼれ”の関連については何も書いていない。
ここで、”動物の自己鏡映像認識”&”脳と鏡”&”鏡と心理学”を削る。

ちなみに猫は類人猿と違い、鏡を認識出来ません(実験済)。

一般に鏡といえば、「ラカン*2鏡像段階」を即、連想するだろう。
それに関して、この本に面白い一節があるので引用。

ラカンの「鏡像段階」は、フロイト派の精神分析医から本格的な哲学者まで、広く引用されているが、神経科学者がラカンの研究に言及することはめったにない。私見によれば、それは二つの大きな理由がある。第一にラカンの考えは、実験との関係が明確ではない。ラカンは、実際の鏡映像認知のデータをほとんど調べていないし、条件を統制した鏡の実験を実施したわけでもない。実験主義者がラカンを敬遠する二つめの理由は、彼の文体にある。たいていの人にとってラカンの文章を読むのは、四月十四日の深夜(最終期日の前夜)になって確定申告の書類に税金額だの控除額だのを書きこんでいる状況と似たようなものだろう。私の同僚は、「ラカンを読んでいると、フェラーリをセカンドギアのまま運転しているような気分になる。もっとパワーがあるのはわかっているのに、速度をあげられなくていらいらする」そうだ。


「うぬぼれる脳」より

(「ハイデッガー」についてドイツ人が「ハイデッガーは未だドイツ語に翻訳されていません」といったセリフを思い出す。)

果たして、「ラカン」は仏訳されているのだろうか?(邦訳の”エクリ”は読めません)。


などと、あれこれ考え、結局この本に落ち着いた。

鏡のテオーリア (ちくま学芸文庫)

鏡のテオーリア (ちくま学芸文庫)

*3
序文で著者はこう書いている。

天然の水鏡から銅鏡へ、銅鏡からガラスの鏡へと、文明の階梯に対応した進化を遂げながら、鏡は古来様々な象徴に用いられることに耐えてきた。映すというそのいささか危険な機能の他に、輝くというさらに眩惑的な性質を備えたこの器具は、日常的な身辺の道具である以上に、本来の意味での「道具」即ち「成道の具」ともなり、あるいは逆に、自意識を増長せしめる破滅の具ともなった。
(略)
もとよりこのテーマは非力な私如きが取組むにはあまりに巨大過ぎよう。鏡はすべてを容れる。森羅万象を映し、森羅万象を映す心を映す。鏡をめぐるトポスは無際限であり、鏡の観照(テオーリア)には終わりがない。以下の文章は折りにふれて鏡面のきらめきを写しとった小さなメモの集積にすぎない。


「鏡のテオーリア」序文より

”ちいさなメモの集積にすぎない”と著者は謙遜しているが、内容は多岐に渡っている。
「ルイス・キャロル」はもちろん、「メルロ・ポンティ」、「フッサール」、「ジェームズ・フレイザー」、「スタンダール」、「寺田寅彦」、「安部公房」、「南方熊楠」、「レヴィ・ストロース」、「ボルヘス」、「レオナルド・ダ・ヴインチ」、「江戸川乱歩」、「李賀(及び唐詩)」、「華厳経(及び仏教)」、「ブルトン」、「フーコー」、「スウィフト」、「エリアーデ」etc,etc。
さらには「バックミラー考」という章まである。

自分も鏡に関する本を、必死に探した(猫の図書館で)。
だが、どうしても鏡というより”ドッペルゲンガー”絡みの怪談、奇談の類しかみつからない。
(たったひとつ見つけたのは、下記の本)。

鏡―ゴースト・ストーリーズ

鏡―ゴースト・ストーリーズ

*4

著者の「多田智満子」氏は、「鏡に関しては卒業した」とのべておられる。
(多田智満子 - Wikipedia)
確かに、これ以上「鏡に関する考察」を行った本はないだろう。

今更、自分ごときが付け加えることなどあり得ようもない。

よって「鏡に関する小説」&「鏡の哲学」も削った。

残ったのは、「鏡のテオーリア」で触れられていない「映像」だけ。
と言うわけで、Youtubeを紹介するが、その前に「鏡のテオーリア」中で一番好きな箇所を紹介しておこう。

鏡恐怖症(catoptrophobia)*5という強迫神経症の一種があるが(中略)この鏡の恐怖からのがれるためには鏡を殺すよりほかに手はあるまい。さて、どうやって鏡を殺すか?金槌で叩き割るか?叩き割れば破片の数だけ映像の数が殖える結果に終わるだろう。どうすれば鏡から鏡性を奪うことができるか?
(中略)
次に鏡を窒息させることを考えついた。すなわち、同型の鏡二枚を、鏡面を内側にしてぴったり重ね合わせ、ひもで十文字に縛りあげたのだ。これは鏡の魔性の呪縛であって、己と相似なるものによって圧殺されたとき、今まで他者にドッペルゲンガーを与えつづけてきたこの鉱物質の魔術師は、見事な応報を受けたというべきだろう。
内面を内側にして重ね合わされた二枚の鏡は、互いに互いの無を映し合う以外に何ひとつ対象をもっていない。しかも距離も光もゼロだから、互いの無を映すことすらできず、闇にとざされている。ぴたりと重ね合わされ、十文字に縛られた姿はひとつの完璧な象徴というべきだろう。*6


「鏡のテオーリア」より

(ここにYoutube数本UPしていましたが削除しました)。



逆に”鏡がない”映画「スケルトン・キー」も。
The Skeleton Key - Wikipedia*7

この映画で初めて” hoodoo(ブードゥー教とは違う)”なるものを知った。

Hoodoo (folk magic) - Wikipedia)。

これ残酷シーンゼロで、しかもラストは驚愕!オススメです!!!
http://www.theskeletonkeymovie.com/(このサイトも暫くはみること可能)。

「J.ハート」が手鏡を怖がるシーンのみにしか、鏡はこの映像に出てこないが、鏡のない屋敷の設定だから仕方がない。



P.S.肝心の鏡については、なにも書けなかった。
とめどもなく話題が拡がることと*8、自分の知識&能力不足で。


ここまで書いても、心残りがまだまだ多いな。特に書くべきだったのは「マジックミラー」*9
マジックミラー - Wikipedia
これは「バルトルシャイティス」や「多田智満子」氏も時代のせいもあり、書いていない。


大体以上ですが、ちなみに、タイトルの「鏡よ、鏡」は「S.エリン」の作品「Mirror, Mirror on the Wall」からで、「白雪姫」とは無関係です。




こうして自分で読み返すと、つくづく内容の無い記事???だと落胆する。
オマケに「音楽」を付け足そう!
ラヴェル」の「鏡/Miroirs」は平凡過ぎると思い、「ウェーベルン」の「ピアノのための変奏曲 Op.27」を。*10

*11
他に無いと思ったら、もう一個面白いのをみつけたので、UP。

もう一つ。「クラフトワーク」の「Hall Of Mirrors/Spiegelsaal」*12

退屈な曲だ、いま聴くと。同じアルバムからもう一曲。
Showroom Dummies」を。

途中でガラス(鏡の一種だろう)を割る内容の曲だし、こっちの方がよい。


ここまで来たらヤケだ、さらにもう一つ。

以上、しょうもなさすぎる記事(断じて記事ではないが)を読んだ奇特な方にはお詫びします。

次回からは、”大風呂敷のテーマ”を避けて、ブログらしくします。(この文章は自己満足の児戯だ!)。

*1:解釈は御自分で。

*2:ラカンはこう読め!/スラヴォイ・ジジェク著」は面白いがラカン理解とは距離がある。じゃぁ「齋藤環」・「福原 泰平」・「新宮 一成」氏らの本がラカンの実像に迫っているのか?

*3:実はちくま学芸文庫版は持っていません(以下の抜粋は大和書房版より)。加筆の可能性大も未確認。

*4:これ、ジュヴナイルで対象年齢12歳。まぁ自分にはこのレベルが丁度よいか?

*5:”Eisoptrophobia”も参照のこと。

*6:これに関して”鏡の自殺”と澁澤龍彦が絶賛していた。

*7:見ていない人はプロットは読まないで。

*8:吸血鬼と鏡の関係とか、遊園地のmirror maze(日本語で何て云うんだろう?)、鏡文字etc。

*9:この名称は和製英語

*10:鏡と何が関係あるかって?スコアをみると”鏡像形”が出てくるから。

*11:またまた「G.グールド」で(悪かったね)。酷い画像でゴメンナサイ。

*12:この曲は「ヨーロッパ特急/Trans-Europe Express」収録。歌詞に”From station to station back to Dusseldorf City Meet Iggy Pop and David Bowie”というフレーズがある。また「Siouxsie & the Banshees 」もカヴァーしている。

SF作家の”ゲイの檻”−「トマス・M・ディッシュ」

今月のSFマガジンに「トマス・M・ディッシュ」の追悼特集が掲載された。

S-Fマガジン 2009年 05月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2009年 05月号 [雑誌]

個人的に「ディッシュ」といえば「334」だ。
この本だけは、読んでおくべきだと思う。ただし、入手困難、サンリオSF文庫は総じて古本でも高値です。
そこで、あらすじが記載もこちらをどうぞ。334 (novel) - Wikipedia
プロットを読んでも、実際に作品を読む際にはなんの支障もない。凄まじい出来の大傑作だから。
大体、傑作小説って(ミステリは除外)ストーリーを知っていても”謎解き”がメインではないから、問題なくのめり込めるでしょう?
(比較するのに無理があるが、カフカディケンズドストエフスキーetcの例を想像してくれれば分かると思うんですが)。

閑話休題
サンリオSF文庫の作品をこれから探そうとする人は驚くと思います(「334」は約4,000円)。
多分一番高値の「生ける屍/ピーター・ディキンスン著」*1は、いまヤフオクでみたら100,000円で出品されている。*2
スーパー源氏で調べると80,000円。誰が買うか!!!
気になって「暑い太陽、深海魚/ミシェル・ジュリ著」を調べると23,000円(これでも相場では安く感じる。金銭感覚が狂う)。
昔は岩波文庫の絶版が高値で取引されてたけど、”0”が一つ多いんじゃない?
買う人がいるのかな?
ついでにネットでブラブラしていると「サンリオSF文庫の部屋」サンリオSF文庫の部屋というのを発見。読むと、”怪しげな本&ききめ*3(全集ではないけど)”(=高値?)は大体持っている。(別に自慢しているのではありません)。
また、このサイトに”紹介文のあら探し”というのがありますが、「蛾/ロザリンド・アッシュ著」の後ろの文庫紹介欄に”××××誤訳(→××××翻訳の間違い)”という出版ミスがあったことを思い出す。サンリオSF文庫は、作品によっては翻訳の酷さが目立ち、わざとじゃないか?と色々憶測を呼んだものです。(その後”誤訳”の上に”翻訳”というシールを貼る処置がなされた)。*4
閑話休題終わり》


さて、この記事では”ゲイのSF作家”を論じる(というよりダラダラ書き散らす)?つもりなので、「トマス・M・ディッシュ」の作品内容に立ち入って述べのべることはしません。(もう十分研究されているし、自分の拙い意見を書くのは無駄だと思う)。

By 1970, Disch had returned to Manhattan, where he lived with his partner, Charles Naylor. He had been publishing poetry very widely, and in the 1970s there were many readers of Tom Disch who knew nothing of the prose writer.


http://www.independent.co.uk/news/obituaries/thomas-m-disch-poet-and-writer-of-deathhaunted-science-fiction-who-won-plaudits-for-camp-concentration-863874.htmlより

彼は、SF作家としては知られていたが、散文家としての知名度は著しく低かったようだ。

上記に出てくる、ディッシュのパートナー”Charles Naylor (チャールズ・ネイラー)”は、早世してしまうのだが、それは下記に。

Openly gay since the late 1960’s, Disch’s partner of thirty years, Charles Naylor (who collaborated with him for the novel Neighbouring Lives published in 1981) died of cancer in 2004. This loss, as well as the financial burdens caused by Naylor’s illness clearly took their toll. A collection of poems loosely based around the grief he felt after Naylor’s death entitled Winter Journey is due for publication later this year.


http://www.pantechnicon.net/index.php?option=com_content&view=article&id=261:sf101-camp-concentration-by-thomas-m-disch&catid=19:articles&Itemid=60より

At the time of his death he was reported to have been depressed for several years, and badly hit by the death of his longtime partner, Charles Naylor, as well as fighting attempts to evict him from his rent-controlled apartment.


Thomas M. Disch - Wikipediaより

ゲイがパートナーを失うというのは非常に辛い。不運も続いたようだし。

Disch's private life remained private, for the most part. He was publicly gay since 1968; this came out occasionally in his poetry and particularly in his 1979 novel On Wings of Song*5; He did not try to write to a particular community: "I'm gay myself, but I don't write 'gay' literature." He rarely mentioned his sexuality in interviews, and it did not seem to be part of how his readers regard him.


Thomas M. Disch - Wikipediaより

上記文章中(赤文字箇所)で、「私はゲイだ、だがゲイ文学については書かない」と彼ははっきりコメントしている。
また、ゲイコミュニティへの積極的参加をも否定している。
この辺の事情を下記に。

DH: Have you been held up as an icon or model for the gay community?

TD: Scarcely at all. I was pleased when a book called The Gay Canon *6included On Wings of Song I thought, well, finally! they seem to notice me. But just as the book was published, and its author was to go on tour, he was almost killed by a gay-basher in Dublin.


Strange Horizons - Interview: Thomas M. Disch By David Horwich

つまり彼は、世間に吹聴するタイプでも、LGBT運動(当時はいまほどではなかった)などに自ら進んで参加するタイプでもない、ごく普通のゲイだった。
”SF作家がゲイだった”のではなく”ゲイがSF作家になった”ということ(当たり前だが強調しておきたい)。
そして、「歌の翼に」*7や「ビジネスマン」(偏見に満ちたゲイ男性が登場する)などの作品と”彼がゲイだった”ことはなんら関係が無いのだ。
と、ゲイサイドからは感じる。彼は現実という”リスの檻”*8ならぬ”ゲイの檻”に不条理に放り込まれたSF作家だったのではないか?
トマス・M・ディッシュがゲイだからといって、その作品から”ゲイ”を読み取ろうとするのは下賤な行為だ】*9


SFに縁のない方、「トマス・M・ディッシュ」を知らない方にはまず、手頃に読める本を推奨しておく。
↓これ素晴らしい!!!

アジアの岸辺 (未来の文学)

アジアの岸辺 (未来の文学)

(若島正氏のアンソロジーはハズレがない。「リスの檻」・「降りる」に加え、「アジアの岸辺」等々も読める短編集です。これで面白くないという人がいたら・・・???)



自分が最初に「トマス・M・ディッシュ」の名を知ったのは「人類皆殺し」。その従来のスペースオペラ的ストーリー展開を断固拒否した作風と、暴力的な推進力でアンチ・ハッピーエンドで終わる圧倒的迫力に驚いた。
そして、傑作短編「リスの檻」*10や「降りる」を雑誌やアンソロジーで読み、たちまち虜に。
続いて、「キャンプ・コンセントレーション」、「334」で、重苦しくペシミスティックだが、一種の世紀末的魅力というか廃墟的趣向、頽廃ムードの作風に蠱惑される。



以上、英語を訳するのが面倒なので(怠け者のゲイなんです)、多すぎる英文引用について、取り敢えず謝罪しておきます。

とりとめの無い記事?になったが、あまりに無内容なので、「プリズナー」のYoutubeを紹介しておく。
(TVシリーズの「プリズナー№6」の原作ではないが、設定が同じなので雰囲気だけでも。)
(このことはプリズナーNo.6 - Wikipedia参照してネ)

トマス・M・ディッシュ」の映像化作品は他に無いハズ。これはよく考えると不思議だな。



同じSF畑で、「アーサー・C・クラーク」もゲイ(バイセクシュアル)だった。ただ、彼は頑なに否定し続けた。その事実と「トマス・M・ディッシュ」のケースを当初比較する予定だったが、止めた。*11
何故なら、「アーサー・C・クラーク」の偉大な作品群と活動には、ゲイの要素などこれっぽちもないからだ。*12
これは、ゲイ作家とその作品間になんら”ゲイという媒介要素”が存在しない典型的かつ希有な例だと思う。
(参照:Arthur C. Clarke - Wikipedia)
アーサー・C・クラークとゲイ」なる考証をする人は、”幼年期を終えてない”としか云いようが無い。

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

*13
アーサー・C・クラーク」を未読の方へ。映画「2001年宇宙の旅/2001: A space odyssey 」が「S.キューブリック」と「アーサー・C・クラーク」の共同脚本だということを忘れていませんか?
彼の小説への言及が出来ないので(今更ながらですが)、Youtubeからラストシーンを。

*14


P.S.「トマス・M・ディッシュ」氏は2008年7月4日に拳銃自殺。「アーサー・C・クラーク」氏は2008年3月19日に死去(タイムズ誌にも訃報記事が掲載された。参照:Home Page – The TLS)
奇しくも、同年に逝去した偉大な作家のご冥福にたいして合掌。
願わくば、この記事がお二人の名誉を中傷する主旨と誤解されないことを祈ります。

*1:ミステリ作家としても有名。「ガラス箱の蟻」と「英雄の誇り」でイギリス推理作家協会(CWA)賞のゴールド・ダガー賞を受賞。

*2:せどり”にも限度があるだろう!

*3:古本用語の一つ

*4:この情報に興味ある方には教えます。

*5:「歌の翼に」邦訳 サンリオSF文庫国書刊行会から刊行予定だそうだ、めでたい!

*6:http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/%200385492286/ref=nosim/strangehorizons

*7:上記引用文にもこの作品が同性愛と関連があるとあるが、自分はそういう解釈を取らない。

*8:初期の傑作短編

*9:暇な学者や専門家がやりそう。しつこく繰り返すが”誰それがゲイではないか?”とアレコレ調べるのは基本的に認めない。そういいつつ自分自身興味はあるが。

*10:吾妻ひでおの漫画「不条理日記」(星雲賞コミック部門受賞の方です)にも登場。今、手に入るのかな?

*11:アーサー・C・クラーク」の意志を尊重して。探せば幾らでも彼がゲイorバイセクシュアルだという記述は、そりゃありますよ。

*12:中性的なキャラクターが登場する?それがどうした!だったらSF作品のほとんどはゲイノベルになるぞ!!!なんでもありがSFだろう。

*13:読まずに死ねるか!

*14:久し振りにみたなぁ、懐かしい!古くない!

「レイナルド・アレナス」

レイナルド・アレナス 」の「めくるめく世界」を読みかけるが、途中で眠くなる。
(参照:レイナルド・アレナス - Wikipedia)
これがホントの”魔術的リアリズム”か。
まだ、後半は読んでいないが、異端の怪僧セルバンド・デ・ミエル師は、死後も活躍するらしい。

めくるめく世界 (文学の冒険シリーズ)

めくるめく世界 (文学の冒険シリーズ)

(キューバの作家で読んだのは「アレホ・カルペンティエル」と「G・カブレラ=インファンテ 」*1くらい)
かわりに、「レイナンド・アレナス」の「夜になるまえに―ある亡命者の回想」を読む。
夜になるまえに―ある亡命者の回想 (文学の冒険シリーズ)

夜になるまえに―ある亡命者の回想 (文学の冒険シリーズ)

これは一気に読んだ。

(これ以降無意味なので削除しました)。